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伯母野山日記

Obanoyama-Tagebuch

渕野 昌 (Sakaé Fuchino)


Title: 伯母野山日記
created on: 12.01.06(金00:55(JST))
updated on: 15.02.04(水23:04(JST))
2009年9月の終りに神戸に移住してから, 気がついたらあっという間に10年ほど時間が経ってしまっていた. 移住の経緯については 2011年までの伯母野山日記 でも触れた. 神戸に移住する前に書いていた,春日井日記 や, バルセロナに半年住んだときに書いた バルセロナ日記 など, ずいぶんと駄文を書きつらねてきたものだとも思う.ここに書いてきた文章の中には, 雑誌などの作文で (部分的に) 転用したものもある.直接の転用ではないが, いくつかの数学論 (もどき) (たとえば, この論文 ) では,この日記での考察がベースの一部になっている.

[伯母野山日記の一番最近の記事]
[もどる]

※ この page の内容(html file のコードを含む)の GNU Free Documentation License に準拠した引用/利用は歓迎しますが, 盗作/データ改竄やそれに類する行為には 天罰が下ります. 絶対にやめてください. ただし,ここで書いたことの一部は, 後で,本や雑誌記事などとして発表する作文の素材として再利用する可能性もあります. その際,再利用されたテキストに関しては, 諸事情から GNU Free Documentation License に準拠した扱いができなくなることもありますので, その場合にはご諒承ください.

※ 私は夜型人間なので (学生の頃にやはり夜更かしの傾向の強い下宿のおばさんに深夜に家の廊下でばったり会って ,,Sie sind ja auch Nachteule!“ と言われたことがありました), 以下で用いられているタイムスタンプでは,日付変更は深夜の4時に行なっています.たとえば, 11.07.22(金02:35(JST)) は通常の時間表示では日本時間の 2011年 7月23日(土) 2時35分です.


[日記の最新の記載]  
[最近の記事] :
Carla Reestma   人類の滅亡 (2)   ダンス   $\omega_1$ は (普通の数学の) 数学的対象か?   Morgenstern の日記   連続体問題の解決   人類の滅亡   音はこまくの絃琴のせんりつのうずまきのひばりの舌のひかりい   ${\cal H}(\kappa)$   グロタンディエク宇宙   Opera Posthuma   ショパン   ここでヒルベルトが, たとえ矛盾まみれであっても, 集合論という「楽園」の存在を固く信じていたことが思い起こされる   Green books   Professor T.   ブリストル   高瀬さん   Unprovability of consistency   Oratorium Marianum   종다리と Catherine   日本語で書かれた啓蒙書の読者の多くが望んでいるのは, 真理に近づくことではなく,真理を理解したという錯覚の心地よさなのだろう   日本語で数学の本を書くということ   こんな夢を見た.   地球温暖化   バブルの中のバブル      新ゴジラ  

[少し (つまり,かなり) 前の記事] :
Tree as a metaphor of the universe   角田 譲先生を偲んで   Vierfacher Salchow   シンガポールと日本語   完全性定理と私  


* * *


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Title: 人類の滅亡 (3)
created on: 19.09.20(金09:59(JST))
updated on:
関連する(かもしれない)他のエントリー: Carla Reestma

撲が 人類の滅亡 (2) で林檎の樹の植樹のことを書いたからではもちろんないだろうが, Greta Thunberg が植樹/森林保護のキャンペーンを始めたようだ:


Title: Carla Reestma
created on: 19.09.19(木11:53(JST))
updated on:
関連する(かもしれない)他のエントリー: 人類の滅亡 (2)
ZDF の Richard Precht のトーク番組 ("connection established!") で,彼と Carla Reemstma の対談を見た.Reemstma の Redegewandheit には圧倒される.Richard Precht もメディアに出てきた当初は彼の議論の鋭さに大きな注目が集まったが, 彼女とテーブルをはさんでいると,その Precht も普通の抜群によくできるインタヴュアでしかないように見えてしまう. 地球温暖化への本格的な対策をせまる運動に彼女や Thunberg のような特異な才能を持った若い人たちが出てきているというのは, 何かの希望がもてることかもしれない.

一方,インターネットをサーチすると, 人類の滅亡 (2) でも触れた Suzuki や Reemstma や Thunberg などに対する negative campaigns をしているものが沢山見つかる.これらのページの論調は, 「外国人出てゆけ」コメントをまきちらしている日本の原住民の人たちの書いていることと, ほとんど同レベルである. と言うか,むしろ何にどういちゃもんをつけるかということに関して, 大きな類似性があり, これらの発言の背後には同じ種類の動物が控えていることが感じられる.

こういうコメントを見ていると,まあ, 人類がその愚鈍さゆえに滅亡する, ということなら恐竜の滅亡と同じくらい滑稽な地球の歴史の一コマにはなるかもしれない, という気もしてくる. 貨幣経済というのもよく考えてみると非常に滑稽な原始人の習性だが, 多分人類は滅亡するまでこれから離れられないだろう.

逆に, 人類を滅亡から救うためには, この貨幣経済を含めて既存の「文化」を大きく覆さなくてはならないはずなのだが, このことは,人類を救うためには, 今まで人類が経験したことのない内容と規模の革命を (多分この20年間くらいの間に) やり終えなくてはいけない, ということである.Precht は対談の中で 「既存のデモクラシーの枠内で温暖化対策は実行できると思うか? 独裁制が必要なのではないか?」 と問いていて,Reemstma はこれを否定しているが,実際のところ本当の答は,yes だろう. 気候変動に警鐘をならしている人たちに強く反対したり攻撃をしたりしている人たちは, 実は,このことを直観的に感じとって,それに対する恐怖で動いているのかもしれない. そう思って考えてみると,ハリウッドの SF 映画では, 劣悪化した環境の中でサバイヴするために独裁化している文明はつねに悪者として描かれていることに思いあたる. ついでに言えば,多くの場合,これらの映画では, 劣悪な環境の中でサバイヴしていること自体がすでに悪として描かれていて, 差別する側の意識の基本パターンを忠実に踏襲している.

しかし,たとえば, 統計学の初歩も理解できない人が,地球温暖化対策を含む意思決定に際して, 統計学の初歩以上を正しく理解している人と同じ一票を持つような原始的な政治システムを維持していたのでは, 人類が滅亡以外の道を進むことはありえないだろう.

対談の中で Precht の「気候運動」は``右か左か'' という挑発的な質問に,Reetsuma は即座に,運動は``右か左か'' というような分類を越えたものだ, と答えているが (即答は当然想定される質問への答だったからかもしれない),これは, 自分に都合の悪いものはすべて左と言って終りにしてしまう, 日本の頭の悪い大人には受け入れられない考えだろう.そう思うと, 可笑しいような悲しいような気分になる. ("connection aborted!")


Title: 人類の滅亡 (2)
created on: 19.09.14(土01:09(JST))
updated on:
関連する (かもしれない)他のエントリー: 人類の滅亡 地球温暖化
人類の滅亡』で,Greta Thunberg の活動を 「私は明日世界が終ることが分っていても今日林檎の樹を植えるだろう」 という言葉を引用して,「彼女のやっていることは, この明日の世界の終りを前にした植樹のようなものなのではないだろうか,とも思う」と書いたが, その後,David Suzuki の書いたものやインタヴューなどをまとめて見た. Suzuki の論点の一つは,人類は 「月着陸計画」を遂行するような能力を持っているのだから, 同じように団結すれば気候変動の問題も解決できる, というようなものなのだが, しかし,これは,本当に同じように考えることができるのだろうか?

アメリカが 1970年代に月着陸計画を遂行できたのは, 月面に有人飛行で着陸する,ことが目標だったからではなく,ソ連に勝つ, という "普通の"人間が理解できることが目標だったからではないか? これに対して 「気候変動」を許容範囲にとどめる,という目標は, 月面着陸と比較してももっと抽象的で, だから,このことの意味を理解できない政治的指導者が普通にいたりするわけだが, こちらの方は問題が大きすぎて 「ソ連に勝つ」に対応するような, 多くの人が理解できる程度の矮小な (あるいは人間の本能に訴える) モティヴェーションを乗せずらいように思える. このことは, 『人類の滅亡』で, 「現在普通に知りえる情報から冷静に推論すれば, 我々の普通に想像する意味での人類の滅亡という状態が遅くとも200年後くらいには出現していて, それはもうどうあがいても不可避であることが決定している, としか結論を下しようがないだろう」と書いたときの,判断の材料の一つでもある.


Title: ダンス
created on: 19.09.14(土00:02(JST))
updated on: 19.09.17(火13:24(JST))
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竹内外史先生が1970年にゲーデルを訪ねたときのことや,その当時のゲーデルのことを調べたことを Morgenstern の日記 の項で書いたが, そのために,大学のオフィスで Dawson の ゲーデルの伝記である "Logical Dilemmas" を本棚から出して目を通した.この本の表紙は, Loïe Fuller のダンスを描いた Koloman Moser の絵が用いられている. Moser はセセッションの画家なのでウイーンつながりで表紙に用いられたのか, Loïe Fuller のダンスの体現するヨーロッパの 1910年代の Zeitgeist を示唆したかったのか.

Jech's Green Book     

  

Loïe Fuller のダンスは YouTube の動画でも見ることができるが,撲のイマジネーションの中では, このモダンダンスの始祖の踊りは,むしろ山村暮鳥の『聖三稜玻璃』の中にある 『だんす』という詩につながって天に蹴上げられている:

だんす
          山村暮鳥
あらし
あらし
しだれやなぎに光あれ
あかんぼの
へその芽
水銀歇私的利亜
はるきたり
あしうらぞ
あらしをまろめ
愛のさもわるに
烏竜茶をかなしましむるか
あらしは
天に蹴上げられ
ちなみに三稜玻璃はプリズムの意,歇私的利亜はヒステリアである. 大昔,多分中学生の頃この詩を初めて読んだときには, 「烏龍茶」はまだ日本で普及していなかったので, 長いあいだこの「烏竜茶」は撲にとって謎の飲み物だった.

上の作文は,"Logical Dilemmas" が手元になくて書いていたのだが, オフィスに戻ったときに調べてみたら,この表紙の絵は, Gödel の奥さんの Adele が Gödel と出逢ったころに出演していたナイトクラブの名前 „Der Nachtfalter“ からの連想,ということのようだ.この „Der Nachtfalter“ (夜蛾) は Fuller のダンスの名前のドイツ語訳でもあるが,ナイトクラブの名前が Fuller のダンスから来ているかどうかは不明である.ちなみに, このナイトクラブは,„Anschluss“ の時代には, スパイ映画を連想させるような,あぶないクラブをよそおって外国人要人をさそう Gestapo の諜報のためのあやしい場所になっていたらしい. 現在では werk x-petersplatz という (前衛?) 劇場になっている (これは日本だと下北沢かどこかにあるかもしれない,政治的に engagé な劇場のようである).


Title: $\omega_1$ は (普通の数学の) 数学的対象か?
created on: 19.08.27(火14:09(JST))
updated on:
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集合論では $\omega_1$ で最初の可算でない (つまり非可算な) 順序数をあらわす. つまり, 整列順序 (すべての部分集合が最小元を持つような全順序集合) のうち可算でないもののうち最小の整列順序の順序型となっているような順序数のことである. このような順序数の存在は,Zermelo の集合論では言えず,その存在証明には, Zermelo-Fraenkel 集合論が必要になる. Zermelo-Fraenkel 集合論が必要なことは,Zermelo-Fraenkel 集合論で $V_{\omega_1}$ が Zermelo 集合論のモデルとなることが示せることから明らかである [ $\omega_1$ は $V_{\omega_1}$ の部分集合だが $\omega_1\notin V_{\omega_1}$ である.すべての $\alpha<\omega_1$ に対し, $V_{\omega_1}\models\mbox{"}\alpha\mbox{ は可算順序数である"}$ である. このことと順序数の概念の absoluteness から,$V_{\omega_1}\models\mbox{"すべての順序数は可算である"}$ が成り立つ.]

「普通の数学」のほとんどの部分は Zermelo の集合論の中に展開できるので, $\omega_1$ がどのくらい「普通の数学」での考察の対象と看倣せるのか, というのは興味深い問題であるように思える.たとえば,Borel determinacy の証明には $\omega_1$ が必要になるので, Borel determinay を普通の数学に属す定理と考えるなら, $\omega_1$ も普通の数学の対象と考えなくてはいけないだろう.

こんなのはどうだろうか.次の定理の (1) は (超限) 帰納法により簡単に示せる. 学部生むけの演習問題である --- これは可算選択公理を仮定した Zermelo の集合論で示せる:

定理 1. (1) 任意の可算整列順序は $(\reals,\leq)$ に順序同型で連続に埋め込める.
(2) 非可算な整列順序は $(\reals,\leq)$ には順序同型に埋め込めない.

この定理から,

系 2. $\omega_1$ は $(\reals,\leq)$ に順序同型に埋め込めない最初の整列順序の順序型である.

ということがわかる.もちろん系2が意味を持つためには, $\omega_1$ の存在が保証されなくてはいけないので, そのような保証を与えることのできる集合論で議論をする必要がある.

この系を $\omega_1$ が普通の数学の対象である, という主張を裏付ける命題の一つ,と考えることはできないだろうか?

付記. 上で「学部生むけの演習問題である」と書いたし, 実際,平均的な学部生にとって十分に証明の再現が可能な問題だと思うが, よく考えてみたら, 定理 1 の (1) の証明には可算選択公理が必要だが, (2) は選択公理なしで証明できることがわかった. この,選択公理がどのくらい必要になるのか,ということは扱っている主張が 「普通の数学の定理」とみなせるか,という設問とも密接に関連してくるので, 念のため証明を書き出してみた. このノートの "Is $\omega_1$ an object in the conventional mathematics?" という題の節を参照されたい.


Title: Morgenstern の日記
created on: 19.08.25(日16:44(JST))
updated on:
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昨年開かれた竹内外史先生を追悼する学会 の conference volume に出すための論文を仕上げた (論文の原稿の拡張版). この1年に研究が大きく進んだので,ここに書いた研究結果は, ほとんど「連続体問題の解決」と解釈できるものになっている. ただし解決といっても連続体の濃度を特定しているのではなく,

"$<\aleph_2$" あるいは "$<$連続体濃度" を反映基数として持つ強い反映原理が成り立つことを仮定すると, 連続体濃度は $\aleph_1$ か,あるいは $\aleph_2$ か,あるいは非常に大きなものになる

というのが結論の一つで,さらに,

これらのそれぞれの反映原理を導く generic large cardinal の存在公理が一様なやりかたで導入できる.

ということが上の trichotomy をサポートする定理として述べられている.言わば, "mathematical plenitudinous Platonism" の視点からの連続体仮説の解決としての trichotomy theorems である.

上にも書いたように,この論文は竹内外史先生の追悼国際学会に投稿した論文なので, 結語で,私を含め, 私の世代の日本人のロジシャンがいかに竹内先生の書かれたものからインスパイアされたか, ということや,竹内先生の連続体問題への貢献について触れている. 竹内先生が 【新版】ゲーデル (日本評論社,1998) で触れている 1970年のゲーデルの連続体仮説の "解決" についても言及していて, そこに書くことに関連した1970年以降のゲーデルに関する事実を確認するために,ネット上でアクセスできる Oskar Morgenstern の日記 を読んだ.

この日記の 1970年台後半の記載では, ゲーデルとモルゲンシュテルンがゆっくりと死に向ってゆく様子が読みとれて --- Morgenstern は Gödel の死 (1978年1月14日) より少し前の1977年7月26日に癌で亡くなっている --- かなり気が重くなった. しかし,あるいはそれゆえ,引きよせられるようにして集中して読んでしまった. 日記の記載によれば,Morgenstern が状況をかなり客観的に見ているのに対し, Gödel は自分の病状に気をとられて Morgenstern も死の病に犯されていることに全く気がついていない. もちろんこの日記にはこのことの記載はありようはないが, Dawson によると,Gödel は Morgenstern の 死の数時間後に, それを知らずに Morgenstern と話をしようとして彼の家に電話をかけて, 彼の死を知らされてショックのあまり何も言わずに電話を切ってしまったという.


Title: 人類の滅亡
created on: 19.08.03(土10:10(JST))
updated on: 19.09.21(土14:27(JST))
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「人類は滅亡する」

これは,logically correct な statement だろう. 「すべての種族は滅亡する」「人類は種族である」ゆえに「人類は滅亡する」.もちろん, この推論の結論「人類は滅亡する」の semantical correctness は,推論の前提として用いている 「すべての種族は滅亡する」と「人類は種族である」の semantical correctness に依存する.しかし semantics ということで言えば,例えば 「人類の滅亡」と「世界の終り」は同じものなのか? あるいは「「私」の終り」がすでに 「世界の終り」なのではないか? あるいは,現代科学としての宇宙学の意味での 「宇宙の終り」を 「世界の終り」と考えていいのか? など, 確定的な議論を始められる前に確認しておかなくてはいけないことが多すぎる.

多くの政治や経済関係者(?)の発言を聞いていると,彼等にとっての「人類の滅亡」は この「「私」の終り」イコール世界の終り,という世界観に限りなく近いもののように思える.つまり, 「私」が終ってしまえば「人類の滅亡」の問題も終ってしまうので, そんなことは考える必要がない,というようなことなのではないかと思う.

我々は「私」の終りにさえちゃんと向きあえないのだから, 人類の滅亡にちゃんと向きあえないのは, 何の不思議でもない.しかし, (仮に「私」の終りの後にも世界が存在するという世界像で考えるとして) 現在普通に知りえる情報から冷静に推論すれば, 我々の普通に想像する意味での人類の滅亡という状態が遅くとも200年後くらいには出現していて, それはもうどうあがいても不可避であることが決定している,としか結論を下しようがないだろう. Stephen Hawking が生前に言っていたように人類が宇宙に進出することで, 滅亡をまぬがれる,というシナリオも可能かもしれない.そうだとしても,K-Pg boundary の後の齧歯類たちが,多分,今の人類を自分たちの子孫とはみなさないだろうように, 宇宙に進出して変化をとげた生物を,現在の我々が人類の子孫とみなせるかどうかははなはだ疑わしいようにも思える.

この200年後というのはなかなか微妙な数字である. 仮に,人類がどうあがいても存続できないというような環境条件が地球上でk成立するのが200年後だとしても, 過去のいくつもの文明たちが微細な気象変動に反応して行動した結果滅亡再興を繰り返してきたことを考えると, 200年よりもっとずっと前に,気象環境の悪化が引き金になって人類が自ら滅亡の道を走りぬける, というシナリオも十分にありそうに思える. しかし,そうだとすると,人類の滅亡の直前に,それを目撃することなく, 「私」が終ってしまう,という実に間のぬけた状況が起ってしまうとになり,これは,なんとも残念としか言いようがない. あるいは,今まだ見えてきていない加速が起ることで,人類の滅亡に立ち会える光栄の可能性が, 私にはまだ残されているのだろうか?

Martin Luther が言ったと言われている 「私は明日世界が終ることが分っていても今日林檎の樹を植えるだろう」という言葉があるが, Greta Thunberg の報道を見ていると, 彼女のやっていることは, この明日の世界の終りを前にした植樹のようなものなのではないだろうか,とも思う. 樹を植えるのは尊いことだろう. 彼女のやっていることは人類の理性の尊厳に対する最大の敬礼の一つとは言えるだろう.


Title: 音はこまくの絃琴のせんりつのうずまきのひばりの舌のひかりい
created on: 19.07.21(日16:09(JST))
updated on:
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河瀬直美監督の『光』について書いた ほとんど2年前の記事 に "西脇順三郎の詩で 「百舌鳥の舌にも永遠のひかり」という行のある詩があるはずなのだがみつからない," と書いた.これはみつからないはずで,間違って記憶していて, 「百舌鳥」ではなくて「雲雀」だったし,このフレーズは,詩の中では, 一行ではなく,改行を沢山入れて fragmented になったものだった.これは, 1967年の詩集『禮記』にある,『数学』と題された詩の終りで,(横書に変換すると)

音は
こまくの
絃琴の
せんりつ
の
うずまき
の
ひばりの
舌の
ひ
かり
り
い

となっている. これは音と光の共感覚的 (synaesthetic) な,ほとんどメシアン的な表徴だった. この『数学』という詩は, 多分西脇順三郎と交流のあった数学者のことが書かれているのだが, 新倉 俊一著 『西脇順三郎全詩引喩集成』には「慶応大学教授」とあるだけで誰だったのか分らない.
Title: ${\cal H}(\kappa)$
created on: 19.05.10(金11:59(JST))
updated on:
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基数 $\kappa$ に対し, ${\cal H}(\kappa)$ は, hereditarily of cardinality $<\kappa$ な集合全体のなす集合である. 集合論,特に forcing の理論では,十分に大きな $\kappa$ に対する ${\cal H}(\kappa)$ や,それの elementary submodel (${\cal H}(\kappa)$ を $\in$-relation を predicate に持つような構造として考えている), またはそのような elementary submodel の Mostowski collapse が縦横に現れて重要な役割をはたす.

二年前に Katowice で forcing の入門の講義をしたときに,この ${\cal H}(\kappa)$ を扱った講義の回に,${\cal H}(\kappa)$ の内的な特徴付けを与えようと思ったのだが (このときの 講義録 ), うまく見つからなくて,結局時間ぎれになって,この計画を放棄してしまったことがあった. 最近,Grothendieck universe (グロタンディエク宇宙) のことを整理していたら, regular な $\kappa$ に対する,${\cal H}(\kappa)$ が,僕が weakly Grothendieck と命名した,グロタンディエク宇宙の定義の条件を弱めて得られる概念で特徴づけられることが分った. これは,このノート の "Hilbert's Paradox and Grothendieck universe" という題の章にまとめてある.


Title: Opera Posthuma
created on: 19.05.02(木11:57(JST))
updated on: 19.05.05(日16:41(JST))
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ショパンの遺作のマズルカ集 Op.67 と Op.68 はショパンの死後に残された, 若いころの作品のうち出版されなかったものと,晩年 (といってもショパンは若くして死んだので, 年齢的には30代後半なのだが) の出版されなかった作品を織り交ぜたもので,Julian Fontana の編集した,ショパンの死後10年ほどたった1859年に出版された遺作集に含まれる. これらのうち,晩年に書かれたものは,多分出版されたマズルカ集のどれかに入れる予定で作曲されて, 最終的に別の曲で置き換えられたために未出版で残ったものだろう. 因みにショパンの同じ作品番号のマズルカの曲集は, ワルツやノクターンなど他の同じ作品番号でまとめて出版された作品集に比べて, 組曲の性格が強いように思えるし,フォンタナの編集の Op.67 と Op.68 もこれに習って,曲順は考えぬかれたものになっている. ショパンの生前には彼のコピースト, 編集者でもあったことのあるフォンタナによる, ショパンが補遺として編んだかもしれないマズルカ集たちである.これらのマズルカの最後に置かれた, Op.68, No.4 は,当初,ショパンが死の直前に作曲して未完のまま残った作品と考えられていて, フォンタナ版には «Cette Mazurka est la dernière inspiration que Chopin ait jetée sur le papier; peu de temps avant sa mort;-- il était déjà trop malade pour l'essayer au piano.» という脚注があり,バッハの „Kunst der Fuge” の最後のフーガのような伝説が演出されている.しかし,この曲も, 現在では,やはり上のような経緯で破棄された死より何年も前の曲と考えられている.

Op.67 と Op.68に含まれる若い頃の作品は,ショパンの最初のマズルカ集 Op.6 に含まれるものより更に前の作曲と思われるものも含まれており, 彼の晩年の作品に見られる深い表情の雛が現れる前の 「わかりやすい」様式の小品たちだが, これらがマズルカというショパンのポーランドへの想いの込められた若い頃の作品で, しかも彼の死後に残されたものであることを知って弾いていると, 遠い過去の幸福を懐かしむような,喜ばしいような悲しいような不思議なノスタルジーに包まれてくる. 特に Op.59, Op.63 と傑作だが持って行き場所のないような重苦しさを持つマズルカたちを作品番号順に弾いた後にこれらの遺作が来ると, その不思議な死んだ後の世界のような浮遊感はなおさらである.

杉浦日向子の『合葬』では,上野戦争で若者がどんどん惨死してゆく.たまたま戦争にまきこまれてしまって, もともとはこの戦いに参加していたわけでなかった, 長崎でフルベキの弟子になるはずだった若者の死もそうした無駄死にの一つとして描かれているのだが, 最後に置かれた後奏のような掌編では,この若者が死なずに長崎に留学している, というあったかもしれない小春日和の温もりのような想像上の過去からの未来の話が描かれている. ショパンのマズルカ集の最後に置かれているこれらの遺作の作品を弾いていると, しきりと,このありえなかった長崎留学のエピソードが頭をよぎるのである.

ゴールデンウイークに Rem Urasin のマズルカ集の CD を買った. これは前から YouTube で聞いて気になっていた CD で,特に彼の設定しているテンポが僕のテンポに近いので, このテンポで彼が何をしているのかをきちんとチェックしてみたいとずっと思っていたのだった. この CD では作品が (想定される) 作曲年代順に並べられているので,生前の作品番号のある作品の間に Opus Posthumus のフォンタナの編集の曲や,その他の比較的新しく発見された, ドビュッシー版のマズルカ集には含まれていないものなどが, 置かれることになる.Tatiana Shebanova には作品番号順の (したがって作品番号のある作品のみの) ショパン全曲集があるので (この CD 集は,何年か前の僕の誕生日学会に参加してくれた Aleksander Błaszczyk 先生にその折に誕生日プレゼントとしてもらって以来愛聴しているが,彼女の弾いたマズルカは, 楽譜から僕に聞こえてくるマズルカとはかなり違う) これに対抗したのかもしれない.

作品の様式から,配列順序はほぼ妥当に思えるのだが,上で書いた,Op.68, No.4 は CD の最後に置かれていて, フォンタナらの演出した「死の直前に書いたもの」という神話は踏襲されている.一方, Urasin の弾いているのはフォンタナ編集のものではなく, 多分比較的最近に出版された復元版で (最近と言っても何十年か前のものらしく, 多分同じ復元版を弾いているミケランジェリの演奏もある), ABACA 形式のものである.Op.68, No.4 には,一ページからなる手稿が残っていて,この手稿の pdf はインターネットからダウンロードすることができる.編曲されたものの C の部分はフォンタナ版には全く含まれていなくて,手稿でここの部分に対応するのは, ベージの左下1/4くらいを占める部分に, 沢山の書き途中のものが線で消されて10小節分くらいが残っているなぐり書きの断片である. この編曲というか補筆では, A は2回目に左手の和声に変奏が多少加えられるが,右手は毎回全く同じで,ショパン,特に後期のショパンが ABACA 形式で曲を書くときに,2回目や3回目の A に加えることのある,あっというようなひねりを知っていると, ひどく間がぬけて聞こえる.

フォンタナ版の方はトルソとしての気品があるのに,こちらの方は, ショパンの幻の作品と偽って出版されたことのある Charles Mayer のマズルカ (Charles Mayer 自身が詐欺行為をしたのではなく, 彼の死後に彼の忘れられた作品を誰かがショパンの作と偽って再出版したか, 手稿をショパンのものと偽って高く売ったかなにかしたもの) と同格くらいの駄作のように思えてくる. Urasin が DC のために,この新しい編曲を選んでいるのを知ったことで,僕の彼に対する評価はいっぺんに下ってしまった.

Op.68, No.4 は作品番号があるので,Tatiana Shebanova も全集で弾いているが, 彼女の弾いているのはフォンタナ版の ABA で,帰ってきた A のところでフレーズの終りごとにだんだん長くなるフェルマータを入れて,ためらうような, (死の世界に帰ってゆくような?) 演出をしているが, これもちょっとやりすぎのように思える.


Title: ここでヒルベルトが, たとえ矛盾まみれであっても, 集合論という「楽園」の存在を固く信じていたことが思い起こされる
created on: 19.04.27(土19:27(JST))
updated on: 19.07.27(土13:28(JST)), 19.07.22(月09:31(JST)), 19.07.16(火13:21(JST)), 19.06.29(土10:20(JST))
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一つ前の記事でも書いたように, この表明は,数理論理学の正しい知識を持っている人が見たときには,ナンセンスとしか言いようがないのだが, そのような表明が,現在でも絶版にならず (つまり版木を割ることなしに) 流通している出版物に書かれている,ということは, そのナンセンスさや「痛さ」を理解できるためには,平均以上の知性や予備知識が必要となる, ということなのかもしれない.つまり,そうだとすると,この「平均」がおそろしく低いということだろう.

しかしそう言っているだけでは何も始まらないので,この「おそろしく低い平均」を上回る事項の説明をここで試みてみたい.

そもそも,この表明の意図された内容とそのおかしさが理解できるためには, ここで暗に言及されている,また, この表明の書かれている本でも (不正確さを伴って) 説明されているところの, 数学や数学史上のいくつかの事柄を理解する必要がある.

まず 「たとえ矛盾まみれであっても」というのは, 20世紀の初頭に発見された集合論の逆理 (パラドックス) に関する話を念頭に置いているものであろう. 集合論の逆理としては, ラッセルの逆理カントルの逆理ヒルベルトの逆理 などが知られている. これらの逆理は, どれも,ある性質を持った集合の全体からなる集合が存在すると仮定すると, そこから矛盾が導かれる,ということを示しているに過ぎず, 「ある数学的対象を集めた領域 (たとえば群の全体, 線型空間の全体など) を考察することができる」ということと 「ある数学的対象を集めたもの (たとえば $\reals$ 上の関数全体, $\reals$ のボレル部分集合の全体など) を集合として (つまり他の集合の要素となりうる対象として) 考察することができる」 ということの差を認める限り, 逆理などではなく,単に,そこで述べているような性質を持つ集合の非存在定理に過ぎない. カントル自身は,この 「ある数学的対象を集めた領域を考察することができる」ということと 「ある数学的対象を集めたものを集合として考察することができる」ことの差異を正しく理解していて, 1899年前後に書かれたヒルベルトやデデキントへの手紙では, この二つの区別をツェルメロの1908年の論文でのものと類似の 公理系 を用いて説明している. カントルの公理系は発表されることなく, 次の世代の数学者たちによる, その後の集合論の発展には寄与しなかったというのが一般的な見方であるが, Akihiro Kanamori はツェルメロ全集の解説の中で, ヒルベルトはこの手紙の内容をツェルメロに話していた可能性もある,と述べている.

この二つの区別が認めらず,これを数学の重大な危機と認識したのは, カントル,ヒルベルト, ツェルメロらではなく,むしろ集合論と論理を同一視する哲学的立場で数学の基礎づけを研究したフレーゲであった. また,フレーゲとは立場が異なり互いに批判的な評価を下してもいるデデキントも, 彼が「数の理論を扱かう論理学の部分の基礎付け」(Dedekind, "Was sind und was sollen die Zahlen", 1888) というときの「論理学」が今の言葉で述べたときの 「素朴集合論」に相当するものであったと解釈せざるを得ないことを思い出すと, 20世紀の初頭に,晩年のデデキントがこの状況を 「数学の重大な危機」と認識したであろうことは想像に難しくない. デデキントは「普通の」数学者のコミュニティーに属しているとみなされていた人なので, 彼の認識が「普通の」数学者たちに伝染して,それが,巡り巡ってこの「矛盾まみれ」の人の発言に連なっている, ということも考えられるかもしれない. しかし,デデキントもあるかもしれないが, 実際には,ロジックや集合論の研究に関与していたその他多数の人たちの中にも, 一般受けするために,この 「数学の重大な危機」をよく考えずに安売りしまくった人が (過去にも最近にも) 沢山いて, そういう人たちの一般向け解説が伝染して,この「矛盾まみれ」発言が出てきた, というのが実際のところではないのかとも思える.これは,現代, ロジックのコミュニティーがコンピュータテクノロジーへのロジックの応用を無闇に強調して生き残ろうとしたり, 「純粋」数学者が数学の応用を安易に強調して生き残ろうとして,際限なく劣化していっているのと, 似たり寄ったりの現象,と言えるかもしれない.

一方,「楽園」というのは,ヒルベルトの 1925年に書かれた „Über das Unendliche“ (無限について) という論文に出てくる

Aus dem Paradies, das Cantor uns geschaffen, soll uns niemand vertreiben können.
(「カントルの創造された楽園から何人も我々を追放したりすることはできない.」)

という有名な言葉に因む.もちろんこれは聖書の genesis への言及で schaffen (創造) するのは神なので敬語を使って訳してみている. ヒルベルトがアッカーマンとの共著で „Grundzüge der theoretischen Logik“ を出版したのが 1928年で, この本のもとになった講義が行われたのは 1917年から1922年である. アッカーマンの数論の体系の無矛盾性に関する学位論文も 1925年なので, この時点ではヒルベルトのプログラムの遂行は着実に進展していて, 上の論文を含むいくつかの場所での発言を総合すると, ヒルベルト自身は,このころプログラムが成就するのは時間の問題だと考えていたのではないかと思われる. したがって,この論文の中では 「数学の危機」が言及されているとしても, 「楽園」云々の言明でヒルベルトが集合論を擁護しようとしているのは, 集合論が無矛するかもしれないという危惧に対してではない.ここでヒルベルトが 「我々」を楽園から追放するための策略をめぐらせている蛇として想定しているのは, むしろ,強く制限された構成的な数学しか認めようとしない人たちや 「直観主義」を提唱する人たちである. この事情はヒルベルトの上記の1925年の論文全体を読んでみると明快に理解できる. たとえば,ヒルベルトが1930年のラジオ放送でも使っている "敵性"用語である „Ignorabimus“ (不可知性) は,この論文でもラジオ講演でと同じように全否定的に言及されている.

完全性定理も不完全性定理もそれらが証明されるまでまだ数年を待たなくてはならない時点で書かれている, この „Über das Unendliche“ は,現在の視点から,現在の時点での数理論理学の知識は持っているが ここで述べたような歴史についての予備知識を持たない読者が読むとすると, 私が問題にしている「ここでヒルベルトが, たとえ矛盾まみれであっても, 集合論という 「楽園」の存在を固く信じていたことが思い起こされる」 という文言の出てくる本での数学の基礎づけに関する記述と同じくらい, あるいは,ひょっとするとそれ以上おかしなものになっているように見えるだろうと思う. こういったところにも, 現在の時点での数理論理学の勉強をしたことがなくて, それに至る数理論理学の発展の紆余曲折の経緯についても知らない数学者が, 高名な数学者の論文を斜め読みして数学の基礎づけについて論ようとするときの落とし穴がひそんでいるように思える. 例えば, ガロア理論を論じるときにガロアの言葉遣いを踏襲して論じるということは数学史の専門的な議論ででもない限りありえないだろう. しかも仮にガロア理論を論じようとする人は, 普通だったら, 現在のガロア理論の定式化を全く知らずにそれをするとおかしなことになるということに気がつくだろう. 一方,20世紀の前半にほとんどゼロから出発して大きな発展を遂げた数理論理学では, たとえばヒルベルトの1920年代の論文をそこでの言葉どうりに取ることは, 現代においてガロアの言葉遣いを踏襲してガロア理論を論じる, あるいはライプニッツの言葉遣いを踏襲して解析学を語ること以上の錯誤があると思ってよい. むしろ,パスカルの言葉遣いを踏襲して (現代の) 解析学を語る,くらいの錯誤がある, と言ってしまってもいいかもしれない.

このヒルベルトの論文は,最後まで読んでみると, Gödel による $V=L$ で一般連続体仮説が成り立つという 1940年代の結果の証明の雛形になっているのではないかとも思われる, 連続体仮説の肯定的証明の (論文の中でヒルベルトの計画が成就したときには証明として完成することになると宣言されているところの) 証明のスケッチが与えられている.このヒルベルトの「証明」は謎だが, ヒルベルトはヒルベルトの計画が実現したときには,数学の完全性から, 現在の数理哲学の用語を用いて言うと predicativity と impredicativity の間の差も解消する,と思っていたのではないだろうか.

いずれにしても,ゲーデルの不完全性定理がヒルベルトの計画を挫折させることになったことを考えると, ヒルベルトがゲーデルの $V=L$ の結果を予言するような表明を,ヒルベルトの計画を擁護する, ほとんど政治的プロパガンダのように見えるこの論文に書いていることは 歴史の皮肉とでも言えるように思える. 実際ヒルベルトは, この論文を書いたときに,„ignorabimus“ を肯定する人たちを何としても打倒しなくてはならない, という強迫観念にかられていたのではないだろうか --- そう考えると, そのバイアスの想定のもとでは, このときから少し後の, 彼の息子との確執やアッカーマンとの確執も, ヒルベルトの個人史の中のエピソードとして, 一つの文脈の中ので考えることができるようになるように思える. ただし 「ここでヒルベルトが, たとえ矛盾まみれであっても,...」の著者は, 少なくとも数年前に本人と話をしたときには $V=L$ に関連することを全く何も知らなかったので, この 「ここでヒルベルトが,たとえ矛盾まみれであっても, ...」という表明には, ここで述べたような歴史の背景に対する揶揄は含まれていようはないし, 彼には,ヒルベルトの息子との確執やアッカーマンとの確執についても, それらのエピソードを知っていたとしても, 上で言ったような背景のもとでの逸話としては見ることができなかっただろう.

「ここでヒルベルトが, たとえ矛盾まみれであっても, 集合論という 「楽園」の存在を固く信じていたことが思い起こされる」 という表明が, 痛い,あるいはこの場合むしろ薄気味悪い,ものになっている,もう一つの理由は, この表明が,この著者の書いたものの中で,「たとえ矛盾まみれであっても,旧来の数学という 「楽園」の存在を我々が固く信じていることが思い起こされる」 という思考には全く結びついていないことである. 矛盾まみれの数学 でも書いたように, 現代の数理論理学は,「集合論は矛盾まみれと言うことができるとしても, 通常の数学はそうではない」という主張の論拠とできるような結果を複数持っている. しかしこの著者は,そのような議論に踏み込むことは全くない.これは, 知らないので踏み込みようがない, というだけなのかもしれないが,この本では, 自分の旧来の数学に対する盲信が (そのことの妥当性は如何については別としても) 盲信でしかない, かもしれないことを理解していること,を示唆する表明すらない.

独裁政権や他国に支配されていた国が``解放''されたとき, 解放前に,どうしようもない opportunists だったり, 占領国の collaborators だったりした人たちが,新体制の上層部や官僚として沢山生き残って, この人たちが旧体制を demonstrative に,しかし何かしらやぶにらみな議論で批判する, という現象が普遍的に起る. これはヨーロッパでも日本でも日本の近隣国でもごく最近にも広く起った/起っていることである. 数学は集合論から「解放」されたわけではないのだが,この著者は, 「カテゴリー理論こそが集合論に代る新しい数学の基礎 (づけ) である」 というようなプロパガンダに踊らされて,解放の幻想を抱いている可能性があるので, 比較検討してみる価値もあるかもしれない.ちなみにカテゴリー理論は,ZFC では, ZFC の超数学に含まれている,と考えることのできるものである. 現代的な集合論は,相対的無矛盾性の研究などを含め,ZFC の体系内の数学と, ZFC を外から見て議論する超数学の間を頻繁に行き来する, という旧来の数学にはほとんど現れない議論が展開される.このことは, 旧来の数学を研究している人々には全く見えていないことなのかもしれないので, この「カテゴリー理論こそ ...」という,もっと痛い思い込みも, その意味では仕方がないことなのかもしれないとは言える.しかし, こう書くと被害妄想的な発言ととらえられるかもしれないが, この 「カテゴリー理論こそ ...」という盲信は集合論の研究者の迫害の一つの論拠になっているように思えるので, (迫害ということで言えば,たとえば私は,日本では,ついに数学科のポジションを offer されることはなかった) 「仕方がないことなのかもしれない」と言って放置していい状況ではないようにも思える. [このパラグラフはまだ書き途中です 19.07.27(土12:45(JST))]

ゲーデルによる完全性定理と不完全性定理により, ヒルベルトの計画の基礎としてヒルベルトが導入した証明の体系は (ある意味で --- つまり証明に現れる論理式のモデルでの解釈という考え方を認めるなら) 完全であることが証明され, 一方,ヒルベルトの計画の方は, ヒルベルトが思い描いていたようには成就しえないということがゲーデルの不完全性定理から分かったわけだが, 同じ不完全性定理のバリエーションであるゲーデルの加速定理が, 構成的な数学のみを許容する立場からの批判から集合論を強く擁護することは, 見逃されていることが多いように思える.

筆者は,最近 [1] 渕野昌, 数学と集合論 --- ゲーデルの加速定理の視点からの考察, 科学基礎論研究,Vol.46, No.1 (2018), 33--47. でこのことについて議論した. たとえばヘルマン・ヴァイルの 『連続体』に書かれているような構成的な数学の視点からの数学の基礎づけについての議論は, 不完全性定理以降の数理論理学から見ると,数学の基礎づけとしてはある意味で全く obsolete になったとも言えるし, それが逆数学で扱われる体系の一つに対応しているという解釈で現代に蘇ったと言うこともできる (このことについては, [2] 田中尚夫, 渕野昌 訳/解説,ヘルマン・ヴァイル著,連続体 ,日本評論社,(2016). の本文の脚注を参照されたい.). この逆数学での体系は集合論に比べるとはるかに無矛盾性の強さの小さい (つまりごく平たくいうと無矛盾である確率が高い) ものになっているので, そこから見たときには,集合論を「矛盾まみれ」と形容することはできるかもしれない. しかし,私が [1] でも説明したように,その視点から見たとしても, (集合論での) 数学研究は無視できないものになっているのである.子細は [1] に委ねるが, 要点は,ある十分に強い公理系 $T$ を真に拡張する公理系 $T'$ では,$T$ での証明より $T'$ での証明の方が格段に短かくなるような $T$ の定理が存在が証明でき (Eurenfeucht-Mycielski の加速定理), $T'$ が $T$ の無矛盾性を証明する場合には,証明の短かさのより詳細な指定の下で, そのような $T$ の定理が具体的に構成できる (Gödel の加速定理) ということである. このとことは, 通常の数学が必要としている公理的枠組をはるかに越えた集合論で議論をすることの (プラグマティックな) 有用性 (の可能性) を結論するし, 通常の集合論の公理系の無矛盾性を楽々と証明してしまう, 巨大基数公理を集合論に付け加えた体系で集合論を研究することの,意義の強い根拠ともなっている.

これらの定理は,ある数学的命題について,集合論の公理をフルに使ったときには, その短い証明が簡単に見つかるが,旧来の数学が十分に展開できる程度の部分体系では, 同じ命題の証明は非常に長い複雑なものにならざるを得ない,更には, 可能な最小の長さが大きすぎて物理的に書き出すことができない, という状況がいつでも生じる可能性があることを示しているからである.

このような意味で,集合論と旧来の数学の間の関係は,「ここでヒルベルトが, たとえ矛盾まみれであっても, 集合論という 「楽園」の存在を固く信じていたことが思い起こされる」 と他人事のように言うことが適当な状況には, まったくなっていない,と言えるはずなのである.


Title: 矛盾まみれの数学
created on: 19.04.10(水12:59(JST))
updated on: 19.04.18(木07:40(JST))
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論理学で,ある体系が 「矛盾する」と言ったときには, その体系から, ある命題 φ とその命題の否定 ¬ φ の両方が (論理的に) 導けてしまうことを言う.しかし, 多くの人は,ある体系から,その人の直感的理解に反する結論が導けてしまうことと, その体系が矛盾していることを混同してしまうようである.

数学者は論理的な推論から自分の直感と異なる結論が導けてしまう, という体験をたくさん積んでいるはずなのだが, 自分の専門分野では, そのような体験を段階的に積みながら自分の数学的直感の方も少しずつ修正していっているので, 逆にプロの数学者は,それを体系の矛盾と混同してしまうような,自己の 「数学的直感」と数学の間の乖離を経験することがほとんどなくなってしまっているのかもしれない.

それで,数理論理学や集合論をどこでも勉強したことのない数学者が, 彼らの言うところの 「数学基礎論」に関連する話題で, 自分の分野では感じることの少なくなっている大きな直感からの乖離に直面して, それを,論理学や集合論の体系が矛盾している,と誤認してしまうことが多いのだろう.

これを書き出したのは, ある知りあいの数学者による数学の哲学や数学の美学のようなことに関する本の中に, 「... ここでヒルベルトが, たとえ矛盾まみれであっても, 集合論という「楽園」の存在を固く信じていたことが思い起こされる」 という一節があったのを思い出したからだった.数年前にこの本を読みなおしてみて, この「矛盾まみれ」をはじめとして,あまりにも痛すぎるところがいくつもあったので, 売れていそうな本なので次の版が出るかもしれないし,助け舟を出してあげようと思って, 会ってこの本についての話をすることを著者に提案してみたことがあったのだが, 忙しいという理由で見事に断られてしまった.

面白いのは,この人もそうなのだが,集合論が矛盾まみれ, という感覚が (仮にそれが正しい直観だとしても) , 「そうだとすると,自分のやっている「数学」も実は矛盾まみれである」, という結論に全く結びつかないように見えるところである.もちろん, logic を知っていれば,たとえば,consistency strength の hierarchy による議論などで,自分のやっている数学は集合論の非常に弱い部分体系の中で展開できるから大丈夫だ, などのある妥当な理由をつけることはできるとは思うが, たとえば,この本では, 読んでみたかぎり,著者御本人がそのような議論を理解しているようにも思えないのだ. また,この本には不完全性定理についての話も出てくるのだが, 不完全性定理が自分のやっている数学とどう関わりあっているのかについても, はっきりと言及されていないので,疑ってかかると, その点について,ちゃんとつきつめて考えたり理解しているのかどうかも怪しいような気がしてくる.

今,大学院の講義で,集合論の公理系の導入のところの話をしている. まず,素朴(公理的)集合論を導入して,そのうえで述語論理を (純粋に finitary な standpoint にもどって) 導入し,(ラフな) コーディングの話を経由して, 完全性定理の略証を与えておき,そこで初めて述語論理上の集合論の公理系の再導入をする, という筋書を考えている.更に,この段階で,コーディングの $V_\omega$ でのもっと厳密な再導入をして, 不完全性定理の話を集合論の枠組で行なうことになると思う. これは歴史的な発展にも近い形だが,正しい理解を与えるための筋道としては, この少し回りくどいやり方をする必要があるのではないかと思う.

このような導入の過程で,集合論が旧来の数学をどのように内包しているのか, 集合論のどの subtheory がどれだけの数学を包含するものになっているのか, といったことの説明のプレゼンテーションをどのようにつけることができるかを確かめる, というのが,この講義で実験してみたいことの一つである.この実験の成果は, 最終的には, なかなか書き上がらないでいる集合論の教科書 (複数の本になりそうである) に盛り込まれるはずである. そしてそれは,旧来の数学を研究している数学者にも読んで理解してもらえるものにしたい, とも思っている. しかし,これは,上で述べたような経験や数多くの似たような体験を思い出すと, なかなか難しいことかもしれない.... と考えると,かなり絶望的な気分になってくる.


Title: Green books
created on: 19.03.29(金15:21(JST))
updated on: 19.04.16(火23:42(JST)), 19.04.01(月01:21(JST)), 19.03.31(日20:34(JST))
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集合論で The Green Book と言った時には Thomas Jech の旧版の "Set Theory" のことを言ったものだった. François Dorais の書いた 文章 の中に引用されている Jim Baumgartner が 1986 年に書いた文章に,この Green Book という言い方が出ている. (僕もぎりぎりで属しているような) もっと昔の世代の人には "The Red Book" というのもあった.これは Gödel の "The Consistency of the Continuum Hypothesis" で, 多分今の人で,この本をわざわざ読んでみる人はいないだろう."Green Book" の方は, 新版の "Millennium Book" (Set Theory -- The Third Millennium Edition) には含まれていないトピックスが沢山入っているので, 今でも必要になることのある本である.僕はといえば, この本は,大昔に (多分ベルリンで) 買ったものをスキャンして ipad に入れて携帯している ("Millennium Book" の方は, それほど大昔ではないがもう十年以上前に著者自身から貰った pdf をこれも ipad に入れている).

Jech's Green Book      Goedel's Red Book      Millennium Book     

   実は,この Green Book という表現には元本があった. それが今年の初めにオスカーを3つとった映画の題名にもなった, "The Negro Travelers' Green Book" で,segregation の時代のアメリカで, 黒人の旅行者がいやな思いをしないでもすむ宿泊場所やガソリンスタンド,レストランなどをリストアップした旅行ガイドである. この映画 "The Green Book" は今回のアメリカ旅行で乗った飛行機のエンターテインメントプログラムにも入っていたので, 結局,行きと帰りに二度見てしまった. 映画は,実話に基づいたストーリーで,1960年代に黒人のピアニスト (Donald Shirley というクラシック出のジャズ (風) 音楽のピアニスト,作曲家) が 1960年代に Deep South でコンサートツアーをすることになり,そのために雇った イタリア人の運転手兼ボディーガード (これも実話の人物がいて映画の脚本にはこの実話の人物の息子がかかわっている) との間に友情が生れる, といういかにもハリウッド映画にありそうなストーリーである. 残念ながら,この映画では音楽の方はそえもので, 本物の Don Shirley の音楽はアレンジされたものがちょっと挿入される程度だったし, 当時,黒人によるクラシック音楽の演奏や作曲が受け入れらなかったため, ポピュラー音楽の演奏に甘んじるしかなかった, Shirley が持ったであろう心の葛藤も軽くあしらわれているだけなのも齒痒かった. 最後の方で主人公がショパンの「木枯らし」のひどい短縮版を弾くシーンがあるが, これはショパンに対してもクラシック音楽に対しても冒涜としか言いようがない. もっとも, この映画が, ジャズは好きだがクラシック音楽なんかくそくらえと思っている多数の人のために作られたものだとすれば (ハリウッド映画とはしょせんはそういうものだろう), これはまあ仕方のないことかもしれないが.ただし,この映画の中に,segregation に対して白人のアメリカ人の良心 (?) が抱いているステレオタイプのようなものを見てとることは, できるように思う.またこの映画が Obama 政権時代ではなくて Trump 政権時代に作られたことは評価すべきだろう.

   この映画の中のシーンの一つは,今回のアメリカ出張の後半に立ち寄った Raleigh が舞台だった. そんなこともあってか,その週末に訪れた Raleigh の歴史博物館 には, この Green Book の期間限定の特別展示があった.

The Negro Travelers' Green Book    The Negro Travelers' Green Book

   展示されていたのは,1959年版の Green Book だった.今回の旅行では,Raleigh では, 街はずれのホテルを間違えてとってしまったため,Downtown に出るのに,毎回, 主に黒人の人たちの利用しているバスを利用しなくてはいけなくて, "現代の segregation" --- ちなみにこの "現代の segregation" というのはニューヨークで今回も会った Philipp Rothmaler も使っていた表現だった --- の向こう側を期せずして覗いてみることになったのもなんだか変な偶然のめぐりあわせだった. もっとも,向こう側と言っても „Bio-ostasiat“ としての僕のいるのがどちら側かは微妙なところもあるので, そう言うのが適当なのかどうかよく分らないが. 神戸では,バスを利用するときが,神戸の人の言葉を聞く機会であることが多いのだが, Raleigh でもバスの中で聞こえてくる土地の人の話す英語の会話はとても興味深かった.

   博物館では,この他にも Raleigh の近郊に生れた Ernie Barnes の絵画の特別展示もあった.こちらの方の展示の写真撮影は禁止されていて, 著作権の問題もあるので, 画像はリンクできないのが残念であるが, 手足の長いほとんど漫画的にデフォルメされて描かれた黒人の人達の躍動的な動きの瞬間をとらえた絵たちに圧倒された. 上で触れた映画の方は, 白人の側からの視点で見たハリウッド映画にすぎないのに対し (実際,ネットには白人が聞きたい話をえがいた映画にすぎないという主旨の批判が複数あがっていた), Afro-American である Barnes のあみだした身体性の絵画表現にの中には,本物の躍動感が感じられ, その対比は面白かった,というよりほとんど衝撃的ですらあった.
Title: Professor T.
created on: 19.02.09(土15:02(JST))
updated on:
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Autism の子供は Bach を好む.Bach の音楽には構造があるからだ.
Title: ブリストル
created on: 19.02.06(水01:12(JST))
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先日ブリストルの logic seminar で話をした.英国を訪問するのは, 数年前にケンブリッジのニュートン研究所に滞在したときが最初で今回が二度目である. 歓待していただいたこともあり,あっという間に滞在期間が終ってしまった.

昨年の秋にもポーランドに長期間滞在していたのだが, 滞在の終りが近づくにつれて土地の言葉がしゃべれない状況にだんだんうんざりしだしていた. ENGLISH AS A SECOND LANGUAGE: WHO IN EUROPE SPEAKS IT BEST? というリストで見ると, ポーランドは, 第2言語として英語をよく話すヨーローッパの国のランキングで9位に入っていて, 例えばフランスやスペインはこのリストに入ってもいないのだが, これは多分「教育を受けた」人たちについてで,たとえば workmen のおじさんたちが英語ができるかと言えばそうではなくて, そういう人たちとジェスチャーをまじえて意思疎通をする,という冒険 (実際, 去年のポーランド滞在では,停電とか水廻りの故障をはじめとして,けっこうの回数トラブルが発生したので, それに対応するために言葉のほとんど通じない相手とのコミュニケーションをとる必要にせまられることが何回もあった) は楽しくもあるが, いささかフラストレーションがたまることでもあった.それから, 子供たちと言葉で交流ができない,というのも,とても残念に思えた.

その点,イギリスは英語の本場なので,英語がどこでも通じて,非常に気が楽だった. もっともイギリスは,それが Brexit の一つの背景になったことでも知れるように, ポーランド人の労働者がやたらに多くて,ホテルの cleaning personals のおばさんやおねいさんはほとんど全員ポーランド人なのだが, ポーランドでの同様の職業の人たちとは違い,彼らはそこそこ英語ができる.

僕の英語だって,日本語やドイツ語ほどには流暢でないし (といっても,僕の日本語やドイツ語だって, 少なくとも口語に関してはあまり流暢と言えるものではないかもしれないが…), 僕の生成する英語の文章はかなり artificial なものでもあるはずなのだが, 英国人が紳士的だからなのかもしれないが, 必要なときには街で普通に普通の人と会話が成立したり, タクシーの運転手さんと普通に雑談ができたりするのはちょっと不思議な, しかしとても楽しい経験だった.

神戸とブリストルの共通点は何だろうかと考えてみた, 両方の街とも, かつて重要な港として栄えた場所だということがあるだろうが --- もちろん,それとも連動しているのだが --- 両方とも吊り橋 (suspension bridges) のある街である,という答もありえるのではないだろうか.それで, 僕の talk の スライド は, これらの橋の写真でしめくくってみた.3つある橋の写真のうち最初のものはもちろん明石大橋で, 3番目のものが,ブリストルの Clifton Bridge である.ちなみにその間にはさんだ橋の写真は, 去年のポーランド滞在でも二週間ほと住んだ Wrocław の数学研究所の向かいにある Grunwald bridge (Most Grunwaldzki) である.


Title: 高瀬さん
created on: 19.02.06(水15:42(JST))
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ポーランドに滞在している間に,二宮さんが「小説幻冬」で連載していた 『世にも美しき数学者たちの日常』が最終回を迎えていたようだ. 編集者の袖山さんに送っていただいていた連載記事の載っている雑誌を, 不在の間にたまっていた郵便物の中から取り出して読んでみると, 最終回の前の回の記事は,高瀬正仁さんのインタヴューだった. この記事は,御本人の感じがすごくよく出ていて僕にとっては面白い読みものだった. 一方で高瀬さんの発言としてこの記事に書かれていることは, ひどく気になるところもあった.

ここで御本人の発言として書いてあることは, 二宮さんの解釈が多分に混じっているかもしれなくて,それを更に僕の言葉で要約すると, 本人のもとの発言とはかけはなれたものになってしまう危険もあるのだが, あえて書き出してみると,曰く, 「岡潔先生は,数学とは情緒を数学という形式で表現する学問である,と言ったが, 1930年代以降の数学は情緒のないように作られていて面白くない」 「ヨーロッパの数学者(の大半?)は(第二次大戦前後に)アメリカに渡って (彼らの数学は?) アメリカナイズされてしまった」 「今の数学は問題は解けるが問題は作れない」等々.なお,この1930年以降というのは, 数学の "メインストリーム" が logic での研究を理解できなくなってきた時期とも重なる. また「抽象的…」というような発言もある.

この記事では,「本当の数学って何なんですか」という質問に対して,僕が 「その人が数学と思ってやっていることが,数学でしょう」と言ったことになっている. 確かにそのような発言をしたかもしれないが,しかし,そうだとすれば, それは, 「真の数学的創造性が発揮されているのであれば」というような暗黙の前提で言っていたことで, 過去の数学をいつくしむ, ことと,数学的創造性の発露を同等に並べて言っているわけではない. もちろん過去の数学の枠組から出ずに創造的な数学を行なうことも不可能ではないだろう.

例えば,Federico Mompou (1893--1987) は,過去の音楽の語法からほとんど踏み出すことなく, それでいてどこにもない, ちょっとでも手でさわると壊れてしまうような精妙な新しい響きの音楽を作っていて, そこには,"映画音楽もどき" の作曲をする人たちの音楽とは全く異なる純粋な音楽的創造性の発露が見られるのだが, 似たようなことが数学でも不可能ではないかもしれない.しかし, どうも高瀬さんの言っていることは,そのような数学の創造ではないようである.

Claude Debussy (1862--1918) は,彼のオペラがメロディーを抹殺した, という批評に答えて,そんなことはない自分の音楽はメロディーに満ちている,と答えたということだが, 僕も,もし僕の数学には情緒がない, と高瀬さんが批判しているのだとすれば,そんなことはない僕の数学は情緒に満ち満ちている,と答えるだろう.


Title: Unprovability of consistency
created on: 18.12.24(月01:16(JST))
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The following gives a negative answer to a question Andrjei Kucharski asked me during my this years' stay in Katowice. The following must be a "well-known" folklore but I could not find any suitable reference. So perhaps it might be worth writing it here.

Since the following theorem is about the non-existence of a proof in meta-mathematics, it is a kind of a meta-(meta-mathematical) theorem.

I would like to thank Taishi Kurahashi and Makoto Kikuchi for some valuable comments.

Theorem. Assume that $T$ is a weak set theory in a broad sense (including, e.g., the case ``$T={\sf PA}$'') in which the Second Incompleteness Theorem can be formulated and proved. Let $T'$ be a theory extending $T$ and such that $T'\vdash consis(\nnumeralof{T})$.
  If there is a (meta-mathematical) proof of the consistency of $T'$ from the assumption that $T$ is consistent, then we can obtain a proof of the contradiction from $T$.
  In other words, there is no (meta-mathematical) proof of the consistency of $T'$ from the assumption that $T$ is consistent.

Proof. Assume that there would be

$\assert{1}$ a (meta-mathematical) proof of the consistency of $T'$ from the assumption that $T$ is consistent.

Then we should be able to translate this proof to a proof of $consis(\nnumeralof{T})\rightarrow consis(\nnumeralof{T'})$ from $T$. Thus, we have

$\assert{2}$ $T\vdash\ consis(\nnumeralof{T})\rightarrow consis(\nnumeralof{T'})$.

Note that, since our meta-mathematics should be strictly constructive, the proof $\assertof{1}$ must give

$\assert{3}$ an algorithm $\cal A$ such that, given a proof $\cal P$ of the contradiction from $T'$, $\cal A$ gives us a proof ${\cal A}({\cal P})$ of the contradiction from $T$.

By the Deduction Theorem of a standard system of first-order logic, in which we formulate the formal proof for $\assertof{2}$, it follows that

$\assert{4}$ $T\ +\ consis(\nnumeralof{T})\vdash\ consis(\nnumeralof{T'})$.

By the assumption on $T'$ it follows that

$\assertof{5}$ $T\ +\ consis(\nnumeralof{T})\vdash\ consis(\nnumeralof{T\ +\ consis(\nnumeralof{T})})$.

By the Second Incompleteness Theorem (applied to the theory $T\ +\ consis(\nnumeralof{T})$), it follows that $T\ +\ consis(\nnumeralof{T})$ is inconsistent. Since $T\ +\ consis(\nnumeralof{T})$ is a sub-theory of $T'$, $T'$ is also inconsistent. Hence, by the algorithm $\cal A$ in $\assertof{3}$, we obtain a proof of the contradiction from $T$. Q.E.D.

The theorem above applies to many situations in set-theory. For example:

There is no meta-mathematical proof of the consistency of $\sf ZFC$ $+$ ``there is an inaccessible cardinal'' from the assumption of the consistency of $\sf ZFC$ (provided that $\sf ZFC$ is consistent);

There is no meta-mathematical proof of the consistency of $\sf ZFC$ $+$ ``there is a measurable cardinal'' from the assumption of the consistency of $\sf ZFC$ or even of the consistency of $\sf ZFC$ $+$ ``there is an inaccessible cardinal'' (provided that the theory $\sf ZFC$ or $\sf ZFC$ $+$ ``there is an inaccessible cardinal'' respectively is consistent), etc.


Title: Oratorium Marianum
created on: 18.12.18(火22:07(JST))
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12月になって Climate Conference が Katowice で始まり,この町に滞在できなくなり, Wrocław に移動した.開催時期には,大学も閉鎖されて,学生や研究者は市街に入らないよう要請された, ということである. 町の許容量に対して out of proportion なイベントを開催するとこういうことになるのだろうが, 次の東京オリンピックも日本の国際度に比して同じように不相応なイベントになることにならないだろうか?

Wrocław では,大学の音楽ホール Oratorium Marianum のピアノを弾かせてもらうことになり,何回かこのホールのピアノで練習をした. Katowice の Aula にあるのと同じ銘柄の Seiler のピアノだが, こちらに置いてあるのは,モダンな多分戦後の楽器で, あまり特徴もないし,弾きやすくもない楽器だった. しかし,ホール自体は興味深いものだった. パガニーニやリストやクララヴィクだった時代のクララシューマンも演奏会を開いたことがあるというホールは, reconstruction ではあるが,装飾過多のバロック様式で, 客席に人がいないと残響がひどく長くて,弾いていると昔の銭湯で歌をうたっているようないい気分にはなるが, 後にひっぱられて早いテンポでは弾けなくなってしまう.この状態でプローベをした後で, お客が入ってから本番の演奏をすると,テンポを保持するのがすごく難しくなるのではないかと思う.

the trower

  
Title: 종다리と Catherine
created on: 18.08.09(木13:15(JST))
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先日関西を通過した台風12号には 종다리 という名前がついていて, これは雲雀という意味のようだ. このごろでは,台風にインターナショナルな正式名がついている, というのは,少し前から気がついていたのだが, 最近,日本のメディアでもこの名前が取り上げられるようになってきたので, 日本でも衆目を集めはじめているようだ.

日本がアメリカに占領されていた時代には, 日本での台風の正式名はアメリカ式にアメリカ女性の名前だったので, キャサリン台風や, ジェーン台風やキティ台風など,歴史に残る台風があって,その名前を聞いただけで1940年代後半から1950年代にかけての, 空襲で広くなった戦後の空が思い出される.自分の生れていなかったころの記憶というのは, 不思議なものだが,その時代のことを書いたものや, かつて聞いたその時代を知っていた人の話, その時代を描いた映画などの記憶や子供の頃の記憶の過去への敷延から, 自分が経験したことのような鮮明な (作られた) 記憶が浮び上がってくる. 僕の言語生活では, ドイツ語の割合が高いのだが (少なくとも読み言葉や聞き言葉 (テレビやラジオでの) の passiv な受容に関しては日本語や英語よりずっと高いと言えると思う), 僕がドイツ語を使うようになる前のドイツ, たとえば 1940年代から1960年代にかけての (西)ベルリンなども, 鮮明な,偽の (しかし,十分に史実と kompatibel な) 記憶があって, その時代の臭いをかぐことができる. それで,Ku'damm 56 なんていうテレビ映画を見たりすると, あの時代のベルリンへのなつかしさ (... die Seligkeiten vergengener Zeiten ...) がこみあげてくる.

キャサリン台風といえば, この名前を冠した西脇順三郎の詩 『キャサリン』がある. この女性の名前からくるエロティックな連想をつつみこんだ詩で, 「女から/生垣へ/投げられた抛物線は/美しい人間の孤独へ憧れる人間の/生命線である」 に始まって,「この手紙はもうあなたへは出さない。」で終っている. もちろん台風との関連は詩の中では隠されている.詩の作られた時期を考えると, 台風の名前との関連は自然に思えるが,この関連を確定的に言いきるには, 詩人を知っていた人の書いたものなどを読む必要がある. 西脇順三郎には『秋 II』という, 『キャサリン』と同じ詩集に収録された,台風が explizit に出てくる詩もある.


II

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ


Title: 日本語で書かれた啓蒙書の読者の多くが望んでいるのは, 真理に近づくことではなく,真理を理解したという錯覚の心地よさなのだろう
created on: 18.06.04(月10:28(JST))
updated on: 18.07.07(土11:13(JST)), 18.07.04(水08:33(JST))
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しかも,そのような読者は,それが錯覚なのかそうでないかという区別についての認識すらできないのではないだろうか.

日本文化には, その出発点に,ヨーロッパ文化でのような意味での「真理」の概念が存在しないかもしれないので (*), この「区別について認識すらできない」ことはむしろ当然のことなのかもしれない.いずれにしても, そのような認識の混濁のある個人を批判しても,批判するだけ無駄と言えるかもしれないし, それでもあえて,そのような人たちを批判すると, これは動物虐待に類することになってしまいかねない.

日本語で数学の本を書くということ では, そのような 「日本語で書かれた本の読者の多く」のうちの一人の ''カスタマーズレビュー'' を例にとって, そこでの認識の混濁の分析をしてみたわけだが, そこで例として挙げた文章の,おかしさは, 書かれたことの意味に深く踏み込なくても,アルゴリズミックに選別することが可能だろう.

しかし, 一見まともな人が書いたように見える文章だが, 実はもう少し高次の問題点を持っているという種類の ''カスタマーレビュー'' というのも沢山あって, こちらの方はもっとやっかいである. 正常の読書人として日常生活を行なうことのできる知性の最低線と, 数学を理解できるための能力の最低線の間にまだ大きな差がある, ということなのかもしれないが,次に挙げるいくつか例では, やはり,「理解する」ということについての理解の深さが問題となっているようにも思える. ただし, これはわざと悪意を持ってこのようなものを書いているという可能性も捨てきれないので, そうだとすると問題はもっと不可解でしかも不快なものかもしれないのだが.

たとえば,日本語で数学の本を書くということ でもちょっと触れた, 数学者の肩書きを持った人の書いた,破綻した内容の本に関する amazon のカスタマーレビューのひとつとして, これを書いている時点 (18.07.04(水08:33(JST))) で以下のような文章が載っている:

ゲーデルに興味をもった初学者にこの本をオススメします。
何よりよいのは、会話体の文章がとても読みやすいことです。 こういうタイプの無限論の解説書は、ギリシアの可能無限についてはともかく、 歴史を下ってきて「ラッセルパラッドクス」のあたりにくると、だんだん喩え話が 内容に追いつかなくなることが多い。その点、この本はすごく上手なサンプルを つくることと、読者代表の理想的な聞き手を配することで、すっきり読めて、 数学的な内容も伝わってくるという理想的な記述がしているように思いました。
数学としてきちんと記述したい部分は、主となる会話体に対して囲み記事や付録に 追い出しているところもグッドです。おかげで、私の場合、コーシー列についての 理解が一段深くなったように感じています。
とても面白い本です。

これは文章だけで判断すると特に知性に問題のある人間の書いたものではなさそうに思える. しかし,ここで言っている「すごく上手なサンプルを つくることと、読者代表の理想的な聞き手を配することで、すっきり読めて、 数学的な内容も伝わってくるという理想的な記述がしているように思いました。 」というのが,この本を読んだときの感想ではありえないことは, 私が ここ で行なった分析を見れば, (少なくとも,そこで私の書いている数学的な内容が理解できるなら) 客観的な事実として認めざるを得ないだろうし, この本の著者のかかえているいくつもの大きな問題についても, (その真のありどころがどこにあるか --- つまり, 著者の能力の問題で何も分らなくてこういうことになっているだけなのか, (数学に対しての ? ) 強い悪意を持ってわざとやっているのか,悪意とまではゆかなくても, 売れる本を書くための未必の悪意が問題を起しているのか --- ということの判断ができかねないことは別とすると) 理解できるはずだと思う.もちろんここでは,「すっきり読めて、 数学的な内容も伝わってくるという理想的な記述がしているように思いました。」と言っているところの 「内容」が醜く間違っているものかどうかについては触れていないので, 「こう書いて何が悪い」という居なおりも可能なのかもしれないが.

この読者のレビューは,上で言ったように, 文章の破綻やそれを書いた人の思考の破綻をアルゴリズミックには検出できない, という程度の作文のできる能力と, 数学的な内容の破綻を感知できるだけの知力との差を例示するものになっているのだろうか ?

あるいは,このレビューアーも, やはり何かの意図をもって「わざと」このような感想を書いていて, 何か批判されたときには, 「こう書いて何が悪い」というような居なおりをするつもりでいるわけなのだろうか ?

 

 

(*) 「真理」の概念が成立するためには, 一神教的な真理の局在化が必要なのではないかと思う. こう言うと, では,偉大な数学者や哲学者たちを生んだギリシャ文化はどうなのか, という問が当然頭を擡げるが,ギリシャの神々は八百万ではなく hierarchy の中にいて,真理の局在化は一神教的ではないにしても十分に起っていたのだと思う. ただし,ここで言っているのは,背景文化としての真理であり,個人が「究極の 真理」を想定するか,想定するとするとそれをどう想定するのか,ということは, 彼/彼女の背景文化だけからストレートに出てくる結論では,もちろんないだろうが.

🚧 この項目はまだ書きかけです 🚧


Title: 日本語で数学の本を書くということ
created on: 18.05.30(水22:20(JST))
updated on: 18.06.10(日15:07(JST)), 18.06.02(土16:29(JST))
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先日,英語のサイエンスカフェで数学の一般性とその汎用性について話した.比較的上手く話せたと思うのだが,一筆書きの話や unit distance graph of the planeといった具体的で初等的な数学の例を前面に出して話したため,参加者の多くは,それらの具体的な例しか見えず,月を指した指を見てしまった人がほとんどだったような気もする.こちらが理想的と考える聴衆を得られない,というのは講演や講義の場合には殆ど避けられない事態だが,文章や書籍でも,このことは似たりよったりかもしれない.

特に日本語のような読める人がごく少数の言語では, 書いた文章がその文章の求めている読者にたどり着けない可能性は大きいのではないかと思う. ちなみに,手元にある少し古めの資料 [Duden, 2012] によると, native speakers の数で言えば,日本語の話者は英語の話者の三分の一強くらいもいるようで, その意味では弱小言語とは言えないかもしれないが,英語の読める intellectuals と日本語の読める intellectuals の数を比較する, ということを考えてみると,日本語が「読める人がごく少数の言語」だという主張は, 誇張でないことが納得できると思う.

幸いに僕のサイエンスカフェでの講演は英語で行ったので, スライド も当然英語で書かれている. その意味では,この弱小言語の呪詛からは自由なわけだが, スライドでは数学的な要点のみをまとめているので,この講演で口頭で述べた, これらの例を基に行った数学の一般性とその汎用性に関する議論は,これだけを見た人には全く伝わらないだろう.

この講演で扱った数学の例は初等的なグラフ理論に関することだったので, 準備のため,一松信先生の『四色問題』を読み直してみた.この本は Appel と Haken による四色問題の解決の直後に, 多分,非常に短い期間で書かれた解説書であるが (初版は昭和53年(1978年)で, 著者が Martin Gardner から四色問題が解決されたようだということを聞いたのが1976年7月のことだということである),それにもかかわらず, 問題の解決の経緯についての記述を含めて丁寧な説明がされている.

しかし amazon のこの本のページでの ''カスタマーレビュー'' には, 複数の "間違った読者" のおかしな感想が載っている. そのような感想の1つを引用してみると,曰く: この本を読むには、 グラフ理論とフレームワークがわかっていないと理解できない本です。一般向けの本として売られていますが、 ハードルが高くてわかりません。

『フレームワーク』が何を指しているのか不明だし, 文章が日本語としても破綻しているが, 「グラフ理論」については本書には予備知識を全く仮定しない丁寧な説明があるので, ここで書くべきなのは 「初等的なグラフ理論についての説明を分かるだけの理解力のない人には理解できない本です」だろうし, この評者は,自分の置かれている embarrassing な状況を正しく認識して,潔く 「自分にはハードルが高くてわかりませんでした」と書くべきだろう.もちろん本書は一般向けの本である.

このレビューを書いた人の知性の濁泥は, 認識の主体を文法的に特定しない日本語の構造がそれを助長しているようにも思えて非常に不愉快である. 他にもいくつかのレビューが載っているが,どれも同じくらい病的である. 気になって同じ程度の知性の読者を対象にしていると思われる英語で書かれた何冊かの啓蒙書の customer reviews を読んでみたのだが,そこでは日本語でのこれらの 「カスタマーレビュー」でのような言語や内容の乱れは見られない, ちゃんとしたレビューが大方を占めていた.英語でも,たとえばポピュラー音楽でない, ドイツ語で E-Musik と呼ばれるような種類の音楽の youtube のポストには, 一松先生の本のカスタマーレビューと十分互角に戦えるようなクレイジーな (英語での) コメントが集まってくることもあるので (関連する話題については, 「 『無限のスーパーレッスン』 の hyper-critique」の第6章に書いた) , 単に,どこで, 自分の理解を超えたものと向き合うだけの度量のない人たちが醜くストレスを発散しているか, または, ストレスを発散してもいいことになっている,と勘違いできるのか,というような状況の文化的な違いに過ぎないのかもしれないが. いずれにしても,英語で書かれた数学の啓蒙書では,それらが英語で書かれていることで, 内容について来られる読者を十分に確保できて,そのような読者の一部の書いた正統的な reviews がおかしな書込みをブロックしているが,一松先生の本は,日本語で書かれていることで, そのような ''正しい'' 読者を十分な数だけ集めることができないでいる, ということは言えるだろう. これは日本の文化の問題ということももちろんあるのだろうが, 日本語の読者の数の問題ということが大きな要因になっているのではないかと思う. 以上では,一松先生の本のレビューについての話しだが, 実は僕自身も一松先生の本のレビューに似たようなレビューをいただいたことがあるし (これについては ここに 書いたことがある.), 他の日本語で書かれた一般向けの本でも同様の現象が起こっていることが確認できる. また,後述するように「とんでも本」に「好意的な」レビューが集まるという現象さえ起こっている.

皮肉なことに一松先生の本の中にも,読み手の少ない言語としての日本語について触れているところがある. その箇所を以下に書き出してみる:

その本は、結局、リンゲル一人の名で、ヤング未亡人にささげるとして, 一九七四年にドイツの有名なスプリンガー書店の「黄表紙」叢書の一冊として, "Map Color Theorem" と題して発行された。 著者はカリフォルニアでやった仕事だから, 英語で書いたと弁解しているが,ドイツ人がドイツの書店から英語の本を出版するというのは, 政策的な感がある。他の本では、「初めドイツ語で書き出したが,good German で書くよりも,bad English で書いた方が, 広く読んでもらえると忠告されたので,英語に書き直した」といった記述さえある。 日本での外国語教育も,この面から考え直す必要があるかもしれない。

1978年に書かれている文章なので,今読むと若干時代錯誤の感もあるが, 少なくともこの時点で, ドイツでは本は英語で書くというスタンダードは既に確立されかけていて, 日本では現在でもそうでないので,当然ながら当時はそんな考えに及んでもいなかった, という状況が浮かび上がってくる.もっとも, 一松先生がここで書いているのは,数学の専門書についてで, 本書のような啓蒙書についてではないのだが.

一方,一般向けと称しておかしな内容の書いてある本に, 好意的なカスタマーズレビューが集まる,という現象も広く起ってるようである. これらのカスタマーズレビューは trolls の仕業なのか,あるいは単に間違った内容の本の香りにさそわれた知性の弱い人達なのかは不明である. もちろん出版社のさしがね,ということだってありうるだろう. それらの全てをいちいち批判しているだけの余裕はないが, 中には数学者の肩書きを持った人が書いた「驚くべき」内容の本というのもあって, これはちょっと見過すわけにはいかないような気がする.

これは多分著者だけの問題ではなくて,読者の問題でもあるのだろう,そもそも 日本語で書かれた啓蒙書の読者の多くが望んでいるのは, 真理に近づくことではなく,真理を理解したという錯覚の心地よさなのだろう.


Title: こんな夢を見た.
created on: 18.05.30(水22:18(JST))
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こんな夢を見た (2018/05/28).バスで繁華街を走っている.場所はプラハの街中のはずなのだが, 車窓から見える薄暗い路地は中近東か東南アジアの市場のよう. 降りる停留所はよく知っていて,すぐ近くのはずなのだが,いつまでたっても来ないので不安になってくる.
Title: 地球温暖化
created on: 18.01.25(木12:39(JST))
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昨日は異様に寒かった.なんだかエアコンの動作がおかしいので,Mac の Notification Center を開いてみたら,神戸は -6°C となっていた.他の app では -2°C くらいの表示だったが,いずれにしても北ヨーロッパなみの寒さといえる. 東京も零下4°Cくらいまで下がったところがあったらしい.

もしや,と思ってネットを検索してみたら案の定, 「こんなに寒いので地球温暖化はおかしい」というようなことを言っている人が沢山いた. たとえば,

温暖化ってのはCO2による温室効果で起こってるんじゃなかったか 温室なんだからどこもかしこも暖かいんじゃないんか

すんごい寒い…… 地球は温暖化してるんちゃうんか……(´;ω;`)

これだけ日本寒かったら地球温暖化じゃないよね(笑)

など.こういう痛い発言が当然のようにされている, というのはやはりかなり痛いし,絶望的な気分にもさせられる. 統計の授業で,

問題. 地球温暖化が議論されていますが,ここのところ, 歴史的な最低気温の記録が更新されています.このことが 地球温暖化と全く矛盾しないことを,「平均」「偏差」というキーワードを 用いて説明してください.

というのを出したら, どのくらいの割合の学生がまともな解答を書くのだろうか? あるいは, 物理の授業だったら,

問題. 地球温暖化が議論されていますが,ここのところ, 歴史的な最低気温の記録が更新されています.このことが 地球温暖化と全く矛盾しないことを,「平均」「偏差」というキーワードを 用いて説明してください.むしろ,最低気温がどんどん下ってゆくことが, 地球温暖化から自然に予測できる事態であることを,「温暖化の加速」,「システムの安定」という ようなキーワードを含めて説明してください.

としたときどうだろうか?
△△△   △△△       地球温暖化ナリ.地球ヨサラバ.

これはこれまで「地球温暖化ナリ.氷山ヨサラバ.」 としていたものだが,表現をアップデートした. まあ, 「寒いから地球温暖化じゃない」というようなことをはずかしげもなく言えるのが人類なら, 人類は滅んでも仕方がないのかもしれないという気分である. ただし,これは前にどこもかに書いたかもしれないが,どうせ昨今滅ぶのなら, 僕の時代に滅んで,滅ぶところを体験させてほしい,というのは強く思うところでもある.


Title: Steinmeyer
created on: 18.01.18(木12:29(JST))
updated on: 18.01.21(日11:18(JST)), 18.01.20(土10:12(JST)), 18.01.18(木03:06(JST))
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先日,科学哲学の人たちの勉強会のような会合が京都であり,これに参加してきた. 色々勉強になったと思う反面,いつもながら「みんなが言っているから正しい」, 「偉い先生が言っているから正しい」式の論議(†) に満ちていてうんざりした.

京都では,たまたまホテルが安く取れたので, 一泊することにしたのだが,このホテルは京都に長く泊まる時にいつも行くピアノスタジオのすぐそばだったので, 一日目の講演が終った後で,久しぶりにこのスタジオのピアノを弾いてみることにした.

最初の一時間半はいつも借りている YAMAHA のグランドピアノだったのだが, その後の時間にこのピアノの予約がすでに入っていたので, アップライトピアノの部屋をあと一時間借りることにした. これを借りるのは今回が初めてだった. YAMAHA のピアノはこの前 (一年半ほと前) に使ったとき以来アクションの整調がされてなくて, 前のときと同じように,中低音が mp でぬけてしまったり, ダブルアクションからシングルアクションでの柔らかい打鍵への移行が全然できなくて, 結果として mf 以上の音しかちゃんと出せず, 指についてきてくれない不満の残る状態だったのだが (この状態のピアノだとハノンのおけいこのような練習, あるいは悪い状態のピアノをコンサートで弾かなくてはいけないときの対応の練習くらいしかできない), 後半に使ったアップライトピアノはすごく良い楽器で保守も行きとどいていたので,驚いてしまった. 特に,最近,ポーランドでひどいアップライトピアノに沢山触れて, アップライトピアノへの信頼感がほとんどなくなっていて, このスタジオのアップライトピアノについてもあまり期待をしていなかったので,驚きはなおさら大きかった. もっとも,保守が行きとどいている,というのは,ここのグランドピアノの方の状態を考えると, 単に良くオーバーホールされたものを買ってから時間がたっていない, というだけなのかもしれないが… こんなことなら初めからこのアップライトピアノを借りるのだったと後悔した. いずれにしても,この楽器なら,近いうちにまた弾いてみたいと思った.

このアップライトピアノは Steinmeyer という名前の楽器で,後でネット調べてみると,

Die Firma "A.Steinmeyer & Co." wurde 1922 in Berlin gegründet und existierte nur bis etwa 1927

とあった. ちなみに一字違いの Steinmayer というのもあって,こちらは現存する中国のピアノ会社の銘柄らしい. 京都は空襲にあっていないので, 古い楽器が残っていてもおかしくはないが, この Weimarer Republik の時代に5年間しか存在しなかったベルリンの Klavierfabrik で作られた,幻の楽器と, 京都で巡りあえるとは. 「また来んべ」(*)

 

(†)しかもこれらの議論はへんな理論武装や理論カモフラージュがなされていることが多いので, 言っている本人たちも,これが 「みんなが言っているから正しい」「偉い人が言っているから正しい」etc. 式の論法になっていることを認識すらしていない可能性さえある.
 数学ではわかったつもりになって先に進んでしまう,というのは致命傷なので, この「みんなが言っているから正しい」「偉い人が言っているから正しい」etc. 式の論法を無意識に採用してしまうことを避ける訓練を重ねざるを得ないわけだが, そのような修行を積んでいない生臭坊主というものは, やはり生臭坊主であるしかないのだろう. 現代のアカデミアの門にも 「(現代)数学を知らざるもの,この門をくぐるべからず」 というような自己言及の主張が書かれるべきと思う所以である.

(*)「また来んべ」というのは千葉の方言で,その意味は 「またきますね」というような感じ.西脇順三郎の詩集『近代の寓話』に含まれている, 戦時中に千葉の農家に疎開していた本を戦後になってとりに行ったときのことを題材にした詩 (詩の中に, メタな記述として,この詩の背景を解説する数行が挿入されている) の, 最終行として使われている言葉である.
 この詩は, 現実の描写とシュールレアリスティックな表現 (天使の頭がじやまになつて少しも/天国がみえない) が交互にあらわれてそれらのイマジーュの間の往復運動の振幅が発散しかけたところで, Debussy の曲の最後でよくあるように「また来んべ」という一言で突然流れを切ってしまう, というあざやかな終りかたをしている.説明してしまうとちょっと uncool だが.


Title: バブルの中のバブル
created on: 17.12.17(日01:26(JST))
updated on: 18.01.15(月11:16(JST)), 17.12.28(木21:10(JST))
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最近よく聞くようになった 「フィルターバブル」という言葉は主にサーチエンジンやソーシャルメディアが形成してしまう情報の境界被膜を指す. しかし,我々をとりまいて "真理" から遮断してしまおうとする境界皮膜を形成するのは, サーチエンジンやソーシャルメディアに限らないだろう. 各々の国家がその「国民」に対して意図的に生成する境界皮膜もあれば, エクソンの情報操作のようなものの結果として生成される境界皮膜もあるだろう. もちろん,これらはネット上の境界皮膜を強化しにかかるような種類のマシナリーでもある.

そもそも,我々は自分の見たいものしか見ていないかもしれなくて,. 蚕がつむぎ出す繭のような,自分自身の作りだした厚い境界皮膜が, 他の境界皮膜の内側にあって, その外側にある皮膜は,この内皮を補強しているにすぎないのかもしれない.

時折, この境界膜の存在に気付いて驚く, というのは近代人にとっての哲学的な啓示の瞬間のようなもの, と言えるだろうが, そのことに一生気付くことなく,「力強く」生きている大半の人々をどう扱えばよいのか? あるいは,初期の現象学が主張していたような,自分を無にすることで, この一番内側の皮膜を通りぬけることができる, というようなナイーヴな「理論」とはどう向かい合えばいいのか?


Title:
created on: 17.12.12(火17:56(JST))
updated on: 17.12.17(日10:36(JST))
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カトヴィツェのシレジア大学での僕の host のブワスチック教授にグリヴィッツェの放送塔に連れて行って頂いた. グリヴィッツェの放送塔は, 第二次世界大戦直前の1939年にドイツの秘密国家警察がポーランド人による襲撃を偽装し, ドイツ軍がそれを口実にポーランドに奇襲的に進軍する事で大戦に突入した, その歴史の舞台となった場所である. 放送塔は塔の中心に垂直に張られているアンテナのシールドにならないため木製で, 留め金も金属でなく鉱石が用いられている. 昔のヨーロッパの放送塔の多くがこのような構造だったということだが, 現在ヨーロッパに残っている木製の放送塔はこれ一つのみということである. 木造で華奢な印象を与えるせいか,東京タワーの三分の一以下の高さしかないのに,ひどく高く感じられる.

the trower

  

偽装の襲撃の舞台となったのは,この塔自身ではなくその隣にある放送管理棟で,この建物は今は歴史博物館になっている. この偽の襲撃を本当らしく見せるためにドイツの秘密国家警察は人を殺して現場に遺棄したりもしているようであるが, 全体としてはお粗末な演出で国際社会からは直ぐに偽装襲撃として非難されている.

これより8年前の日本の関東軍の演出した, いわゆる柳条溝事件も同じようなお粗末な偽装爆破事件で (ここでも襲撃をもっともらしく見せるための殺人と死体遺棄が行われている), これが偽装であることも国際社会から直ちに看破されている.時間的な関係や, 御粗末さ加減の類似性から,ひょっとするとドイツの「作戦」は日本の 「作戦」の猿真似だったのかもしれない,という気さえしてくる.

両方とも,そのお粗末さにもかかわらず進軍のきっかけとなり得たのは, 自分に徳になること (日本語で景気とか, 暮らし向きとか呼ばれているものが良くなるようなこと) なら何をやっても良いと思っている大多数の国民の破廉恥さに, 納得する口実を与えられたからであろうし, 偽装を仕掛けた側もそういう国内の反応を見越した上でのお粗末作戦であったのだろう.


Title: 新ゴジラ
created on: 17.10.21(土13:21(CEST))
updated on:
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ポーランドに戻ってくるときの飛行機のエンターテイメントプログラムで, 『シン・ゴジラ』を見た. これを飛行機で見るのは,去年の映画公開から間もなくのときに最初に見たので,今度が二度目だった. 「現代思想」のシン・ゴジラ特集で何人かの人が触れていた, 牧悟郎博士のプレジャーボートの中の遺品の一つとして 『春と修羅』の (復刻?) 原典版が写っていることを確かめた. 同じカットの擬似ドキュメンタリー風の手持ちのカメラのパンで黒い靴がきれいにそろえて置かれているのも写っている.

この映画を大半の日本人は,現状の日本の政治/管理システムでも, 緊急の場合には正しく適用すれば勝利につながる, というメッセージとして理解するのではないかと思うが,欧米語で書かれた批評を読んでみると, 大半の評者は,この映画を,日本のクレージーなシステムに対する批判, ないしはパロディーとしての皮肉としか受けとっていないことが分る. 僕自身の視点は,かなりヨーロッパ寄りなので, 作った側は皮肉としては意図していないし (皮肉が交じっているとしてもほんの隠し味程度だろう), 日本では全く皮肉として受けとられてもいないことは理解できるにしても, つい苦笑いをしながら見てしまうことになる.


Title: Michiko Kakutani と Plagiarism
created on: 17.10.13(金04:07(JST))
updated on:
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Michiko Kakutani が7月の末に The New York Times の主任文芸評論家を引退したということである.大半の数学者にとっては, 彼女が高名な評論家であることを 知っていたとしても,Michiko Kakutani は Shizuo Kakutani のお嬢さんである,という認識になるのではないだろうか.

この引退のことを知ることになったのは, ネットで見つけた翻訳家/エッセイストという肩書きの日本人の人の書いた記事だったのだが, この記事には,Shizuo Kakutani も角谷静夫も出てこない.しかも, この人の「翻訳家」という肩書きに,もしかして,と思ってネットで調べてみると, この記事の文章には,2008年の The Guardian に Kira Cochane という人の書いた ''Don't mess with Michiko Kakutani'' という記事の一部が, ほとんど剽窃と言っていいような形で (日本語に訳されて) 転用されていた.二人とも同じ source から書き写したのかもしれないが.

ジャーナリズムでは,日本に限らず,出典を明らかにせずに二次資料のまたびきをしてしまう, ということはけっこう無神経に行なわれることが多いのかもしれないが, (二次資料の無神経なまたびきに関してはこんなことを書いたこともあった) この 「エッセイスト」の文章の場合には,Cochane の文章にある,複数の作家の (Michiko Kakutani を罵倒する) 発言の引用のワンセットが,ほとんどそのまま日本語に移しかえられていたのである. これで更に訳文に誤訳が交じっていたり,消化不足の流用になっていたりしていたら, この記事を書いていた日本人の名前をばらしたくなっていたかもしれない.

しかし,この「エッセイスト」, 日本人が英語を読めないのをいいことに,英文の記事の翻案で水増しした記事を,けっこう名前の知れた, しかもアメリカ系の雑誌なんかに出したりしてお金をかせいでいるのだろうか.

ちなみに,この Kira Cochane という人の文章の方には,Shizuo Kakutani の名前こそ出てこなかったが,''her father was a mathematician'' という一文があった.


Title: 百舌鳥の舌にも永遠のひかり
created on: 17.10.11(水12:16(JST))
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日本に行く飛行機の中で河瀬直美監督の『光』をみた.この映画は Japan Times の Mark Schilling の批評を読んでぜひみてみたいと思っていた映画だった. とてもいい映画だとは思うのだが,見終わって,何かもの足りない,という気分も残った. Mark Schilling が批評で書いていたこと以上のものが何もなかったように思えたからかもしれない.

この映画の英語のタイトルは "Radiance". このタイトルからの連想で西脇順三郎の "百舌鳥の舌にも永遠のひかり" という詩句を思い出して, この文句が頭の中を離れなくなってしまった. 晩年の詩のどれかにあったのだと思うのだが,うまくみつからない.

「永遠のひかり」は, ラテン語の lux aeterna で,「光」はむしろ,この l の音で始まる light とか luminance とかの系列の単語で, radiance は光自身より光の明るさや光の筋を表わす言葉だろう. 志賀浩二の『無限からの光芒』の「光芒」は radiance と訳せるかもしれない. --- radiance from the infinitude --- ただし,映画の題の方の『光』は 「光を失なう」という日本語の成句などにある「視力」の意味の含みもあったのかもしれないので, これをうまく英語のタイトルに置き換えるのはいずれにしても難しかったのかもしれない.


Title: なぜ数学が好きになったのか (3)
created on: 17.10.07(土23:15(CEST))
updated on: 17.10.16(月11:40(JST)), 17.10.10(火02:46(JST))
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リストの最後の質問は,「普段の数学との付き合い方」です. 前にも書いたように数学というのは広義には, 「(理知的に) 考えるときの正しい方法」にすぎないので, 数学と付き合うということは,考える,ということです.しかも, 考えるべきこと (あるいは考えうること) は,人生の長さに比して絶望的に, あるいは視点を変えれば歓喜すべきほど沢山あるので, 一旦考えることを決心すると,四六時中考えても時間が足りない,という状況が生れます.

考えることの達人だった Erdős Paul (ハンガリーでは日本と同じに苗字名前の 順に人名を言います --- ちなみに,ここでは英語の wikipedia をリンクしましたが,日本語の wikipedia ページはほぼこの英語版の翻訳になっています.おまけに, この日本語版は笑える誤訳がいくつもあるので大変楽しめるものになっています) の逸話に, Erdős が橋の上に立って考えていた.警官が不審に思って 「何をしているんですか?」と尋ねたら Erdős が "I'm thinking." と答えた, というのがあります.確か第二次世界大戦前のロンドンでの出来事だったと思います. これは数学者向けのジョークと言えると思いますが,一般の人の思っている 「考える」は数学者のスタンダードでの (深く) 考えるということとは全く別の意味になる, ということでしょう.一方,数学者でない数学者のパートナーの側からのジョークというの もあって,これは, この間, ポーランド人の数学者の (数学者ではない) 奥さんがワインの試飲会 (といってもかなり飲んだり食べたりする会) の折, 皆がもういいかげん酔っぱらってきたときに言っていたものですが, 数学者とそのパートナー (数学者は男性の方が多いですが, どちらが男性でも成立するジョークです) がベッドに横になっていて 「同じことを考えている?」「うん」「...」「...」 「じゃああんたの証明を言ってみて」というのがありました. もちろん二人とも数学者だったら,ここで議論 (これも一般の人には通じにくい概念かもしれません) が始まる,という ジョークではない展開になるわけでしょう.

というわけで,「普段の数学との付き合い方」は常に考えていること, ということになると思います.これはかなり反社会的な行動で, 本格的にやろうとすると回りの人にも迷惑をかけることになる行動でもありますが,このことの帰結として,車は運転しない, とか,合法非合法は問わず麻薬はジョイントでは服用しない, といった生活パターンも決まってきます.数学者の車の運転は, 運転中に考えはじめてしまうことがあるので,大変危険です. 麻薬 (酒など) を数学者でない人とジョイントで飲むと思考を不自然な瞬間に中断しなくてはいけなくなるので, これは (数学の) 思考にとって危険です. また麻薬の脳におよぼす長期的な影響というのも無視できません.

しかし逆に休みなく考えていることは,必ずしも効率的ではなくて, 何らかの気分転換が必要になることも多くあります. 何かの気分転換があった直後にそれまで考えていた部品が魔法のように組み合さって問題があっけなく解けてしまう, という体験は多くの数学がしているもののようで, ポアンカレの自伝を始め (ポアンカレは馬車を降りた瞬間に問題が解けた自分自身の体験を語っています), 多くの人が触れているものです. よくあるパターンには, 考えてどうしても分らなくて,眠ることにすると夢の中で問題が解けたり, 朝に起きた瞬間に分ったりするというのもあります. また,私の場合は,日本人の数学者と一緒に酒を飲むことはほとんどないのですが (特に日本の場合,年功序列のようなもののために若い数学者とうまく話をすることができないので), 国際学会の折などに,研究テーマのある程度近い (あるいは全く分野の違う, いずれにしても様々な世代の) 数学者と一緒に酒を飲んで, 色々なテーマの雑談とディスカッションの間を行き来するような会話をすることはあります. これは目がさめたときに問題が解ける, というときのようなドラマチックな展開を伴なうことはまずないのですが, 考えがつまったときの気分転換としては有効なことが多いように思えます.

[この項はまだ書きかけです.]


Title: なぜ数学が好きになったのか (2)
created on: 17.10.07(土12:55(CEST))
updated on: 17.10.16(月11:40(JST)),
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なぜ数学が好きになったのか』 で触れた質問のリストの中の次の2つは, 「数学にハマる理由は何か」「数学の魅力とは」というものです. これはやはり,数学に手を出すのはヤクに手を出すのと同じような人格の弱さや addiction の機構がはたらいているにちがいない, あるいは,そうでなければこんなものにかかわったりするはずがない, という先入観から来た質問のように思えます.それで思い出すのは,五六年前に ドイツの Gießen にある数学博物館で買った T-シャツです.これには, "Mathe macht glücklich" (数学は(人を)幸福な気分にする) という一文が書いてあるのですが ("Mathe" というのは,児童や学生が数学 ("Mathematik") を略して言うときの表現です), これを見て, アウシュビッツ収容所の門に書いてある "ARBEIT MACHT FREI" (仕事は(人を)自由にする) を思い起こさせるのでけしからん, という人がけっこういます. 日本人ではまだこれを言った人に会ったことはありませんが, これは単に言葉の壁の問題だと思います.

しかしよく聞いてみると,これをけしからんと言う人は, 数学は拷問のようなものだ,と思っていることが多いようです.多分上の2つの質問も, (ドイツ語が分れば) "Mathe macht glücklich" をけしからんと思う種類の人の発想なのではないかと思います.

「ハマる」というのが addiction の状態を指す言葉だとすると,これは前の言い方でいうと (狭義の意味での) 数学の研究の局面を記述する言葉ではないように思えます. 「普通」の人から見るとありえない精神集中が必要なことは確かですが,これは, addicted な状況とは無縁なものに思えます.

ただし, 人間も含めて動物のすべての行動のモティヴェイションは (哲学的にも生物学的にも) addiction と同一視できるようなものでしかないのかもしれない,という気もしています. 生きていたい,死にたくない,と思うこと自身が生への addiction にすぎないのかもしれない,というのはよく頭をよぎる考えです.

一方, 「数学の魅力とは」という質問については,もちろん色々な答を言うことができます. なぜ数学が好きになったのか (3) でも述べるように, 考えに考えぬいてもわからなかったことがあったとして, それが何かのきっかけで, それまでにこの問題の解決にもけて組み立てていた思考の部品のいくつかが魔法のように組み合さって問題があっけなく解けてしまう, という体験をすることがあるのですが,主観的には,このようなときには, 急に視界が開けてすべてが明白に見渡せるように感じます. このとき感じる快感は,上で言ったこととは矛盾するけれど, 麻薬的と表現することもできるかもしれません.ただし,このような瞬間は, ただ待っているだけで来るわけではなくて, 少なくとも理詰めでつめられるところは全部詰めてしまったような状況を作ることが必要で, しかも逆にそのような状況を作ったとしても, この啓示の瞬間が来るという保証はなくて, ただ考えにつまるという状況に行きついてしまうことも少なくありません.

上で言ったような数学の「魅力」の感じかたは,多くの数学者に共通のもののようです. 次の文章は志村五郎先生 (以下敬称略) の『鳥のように』の中にあるものです:

数学者にもいろいろあって、純然たる「パズル解き」型の人もかなりいる。 しかし、多くの数学者の心を惹きつけているのは、この未知の世界へのあこがれと挑戦、 つぎにどうなっていくかわからないというスリルにみちた日々の体験、 そして徐々に姿を現わして来る秩序の美しさにある。

ここで志村が『純然たる「パズル解き」型』と言っているのは, 私が なぜ数学が好きになったのか で 「狭義の数学」と呼んでいるものに対応するものと考えていいでしょう. また 「秩序の美しさ」といっている美しさはもちろん美学的な美しさでもあるのでしょうが, 抽象的な,世界の理解の仕方の表現になっていることの美しさ, ということでもあるのだと思います. この志村五郎の言葉は私にはとてもよく分るのですが, 一方彼の研究は僕のやっている研究とはかなり重心は異なっていて, ものの見方もかなり違うと言っていいと思います. 数学の内容に関しては前に彼が文庫本で書いたことについて,つい 苦言一つならず 書いてしまったことがありました.

そういう違いにもかかわらず,数学者どうしが十分互いに共感できる, この数学の魅力は,数学の外にいる人 (この人たちの多くは, 生れてから今まで数学の魅力が認識できないできた人たちなわけでしょう) にはなかなかうまく説明ができないことなのかもしれなくて,志村五郎が上の文章の題としている, 勝事空自知 (勝事は空しく自らを知る) という感じなのかもしれません.

ところで,ここで「考える」とわざと目的語を言わずに言っているのは, ヨーロッパの科学文化の伝統の文脈の中で言っているつもりです.パスカルなら目的語は (キリスト教の意味での)「神」ということになるのでしょうが, これは言葉をかえれば,「宇宙 (universe) を理解する」ために考える,と言うことができるでしょう. この「宇宙を理解するために考える」という行為によって 「全てが理解できている」という状態に至ることは不可能だということが, 20世紀に得られた知見の一つであるわけですが (不完全性定理など), このことは言葉をかえれば,我々はどこまでも考えを進めることができる, ということでもあるわけです.

[この項はまだ書きかけです.]


Title: Legnica
created on: 17.10.04(水18:20(CEST))
updated on:
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Będlewo の学会の後,ポーランドのシレジア地方のカトヴィッチェに来て ここの大学の数学科の客員教授として滞在している. ここにいるうちに仕上なくてはいけないことが山積していて, ピアノを借りてしまうとピアノを弾くことに逃げてしまうのが恐いので, 家にはピアノを置かず, 大学のアウラ (早稲田大学の大隈講堂のような特別の典礼で用いられる講堂) のグランドピアノをときどき弾かせてもらっている. 大学の学長室に正式に許可をとって使わしてもらっているため, 守衛のおじさんおばさんは非常に丁重に接してくれて恐縮である.もっとも,日本と同じで, 大学の本部の建物といっても守衛の人たちは英語が全く話せないので, プリミティヴなコミュニケーション以上のものは全くとれないのだが… 講堂は学長室のならびにあるので, ある日練習していたら学長がふらりと部屋に入ってきて言葉を交した (これは日本での多くの場合とは違って学長の英語はたいへん流暢なものだったのでコミュニケーションは問題なくとれた). 学長と知らずに言葉を交していたら, 僕が客員教授と分って「実は私は学長で …」と言われたのでびっくりしてしまった.

このホールにあるピアノは,それまで聞いたことのなかった Seiler という銘のフルグランドピアノで, フレームの刻印から 1920〜1930年代のものらしかった. 最近替えたらしい絃が何本か狂いまくっているのが残念なのだが,ピアノ自身はとても良い楽器で, 東工大のデジタルホールの Bechstein をちょっと思いださせる.中音部で mp から f にむかって歌い込むと,鼻にかかったような甘い音色を引き出すことができる.

Seiler piano

  

インターネットで調べてみると,この Seiler というピアノメーカーは戦前, 低シレジアの Legnica (ドイツ語では Liegnitz) にあったメーカーで, 一時期は世界的に大変高い評価を受けていたらしい.大戦終結後は Seiler 社長をはじめドイツ人のスタッフは西ヨーロッパに避難して最初にコペンハーゲン, その後に西ドイツで工場を持ち,会社は2008年に韓国のピアノ会社 Samick (삼익악기(三益樂器)) に吸収されたということである.

実は,インターネットで調べていて, この Legnica という場所は, 数学者としての僕にとっても特別な場所であることに気がついた.ここは, Kronecker の生れ育った (そして博士取得後ビジネスで成功して財をなした) 街だった. 今,ポーランド数学会のシレジア分科会と, ポーランド学芸アカデミーのシレジア分科会で講演を依頼されていて, どちらの講演でも,Kronecker と Cantor の確執から話を始めて, 「数学の自由性」について議論してみたいと思っているところなのだ. もちろん数学会の方では, 多少数学的な話 (前にも別のところで議論したことのあるゲーデルの加速定理にからめた話) もすることになる予定である. この2つの講演では,どちらかというと Cantor の側に立った議論になるのだが, Kronecker を全否定するわけでもない. うまくこのシレジア出身の数学者の視点をも含めた総合的な数学像について話ができればよいと思っているところなのである.

[この項はまだ書きかけです.]


Title: なぜ数学が好きになったのか
created on: 17.09.24(日09:23(CEST))
updated on: 17.10.16(月11:40(JST)), 17.09.27(水21:24(CEST))
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なぜ数学が好きになったのか (3)
今度,短期帰国するときに, 数学者についてのノンフィクションを書いているある作家からインタヴューを受けることになっている. 出版社の方からあらかじめそのときの質問事項のリストを頂いているのだが, そのリストの項目に挙がっている質問はどれも,直球の答えでは答えにくいものばかりで 「一言で述べよ」と命令されたら言葉につまってしまいそうに思える. インタヴューのときにその状態になってしまうのが恐いので,これから書く posts のいくつかで,なぜ直球の答ができないのか, ということの説明を試みたいと思っている.ただし,この作家の目指しているのは, 「売れる本」のようなので,以下に述べる解説はそのままでは, このインタヴューの答にはならないだろう.

「一言で述べよ」式の解答しか受けつけられない大多数の人たちに何か本質的なことを説明できるのか, ということについて,僕は否定的な経験を積みすぎてしまっているような気がする. だから, 「ベストセラー」というようなカテゴリーの文章を書いている作家というのは, とても恐しいような気がするし, この恐しさが僕の究極の攻撃性を引きだしてしまいそうなことに対する恐しさもある. しかし,その反面,この「ベストセラー作家」という現象には, ひどく好奇心をそそられもする,… というのがこのインタヴューを受けることを承諾してしまったことの背景である.

***

リストの最初の2つの質問は,この post のタイトルにある 「なぜ数学が好きになったのか」と,「なぜ数学の道を選ばれたのか」です. 最初の文に敬語が用いられていなくて二番目の文に敬語が用いられているのは不気味ですが, それについては目をつぶることにすると,これは, 理論物理学や,天文学や,哲学や, 経済学や,芸術や文学などがある中でなぜ (よりによって) 数学が好きになって, それを職業として選んだのか, というような意味の質問ではないかと思います.

狭義の「数学」に対しては, このような質問ができるかもしれなくて, 「他のことが何もできなかったので数学を選んだのです」というような, 「職人 (モダンな日本語では 「プロフェッショナル」とも言う) のモラル」 の大好きな日本人を喜ばせそうな答を返せる人もいるかもしれません.

しかし, 私にとっての数学は, むしろ広義の「数学」で,それは 「(理知的に) 考えるときの正しい(抽象的な) 方法」を指す言葉にすぎない. だから,私が自分を数学者と名乗ることは,理知的に考えぬくことを決意した, ということの表明にすぎなくて,「道を選ぶ」ということで言えば, むしろ何かの道を選んで, その道に特化した''専門家'' とか ''職人'' とか (日本語で言うところの) ''プロフェッショナル'' になってしまうことを拒否したのだ,というのが私自身の認識なのです.

実際, (上の意味での広義の) 数学が,その抽象性から分野の壁を楽々と超えてしまう, という例を我々は沢山知っています.英語で polymath ドイツ語で Universalgenie などと呼ばれる広範囲の学問領域で重要な貢献をした人は,ほとんど全員数学者です: たとえば,アルキメデス, ライプニッツ,ガウス,フォンノイマンなどの例を思い出してみてください.

抽象性は,「職人」の文化では否定的にとられることが多い概念ですが, これは個別の現象の裏にある共通の本質をとらえる,ということです. たとえば,時代が早すぎて,共通の本質を語るための数学の創造には至れなかったけれど, 寺田寅彦が線香花火や割れ目や縞馬の模様の背景に見た共通の何かや, こちらの方は,数学の手立てを持っていたために, 定式化することのできた,テューリングによる, ある種のコンピュータネットワークと蝶の羽の上の紋様の背後にある共通の概念など, 人為的な「分野」の垣根は抽象的な数学 (とその応用) にとって意味を持たないことが多いのです.

一方,ここで「広義の数学」と呼んでいる種類の数学には,上で言った 「個別の現象」を出発点とせずに, 抽象のための抽象としての抽象概念を研究してゆく,という姿勢もあり, これが,和算のような遊芸としての数学と混同されることもあるのではないかと思います. しかし,この「抽象のための抽象」は,それが「正しい」方向を向いているときには, その応用ないし意味付けが予定調和的に後からついてくる,という現象が非常に頻繁に起ります.

歴史上の例をいくつか見てみると, 19世紀後半に抽象的線型代数の理論が研究されていたときには, これは「抽象のための抽象」と看倣されていたのではないかと思います.しかし, 現在では,線型代数は代数や幾何, 解析学など広範囲な数学理論を統一的に見るために不可欠な枠組を供するものであることが知られています. 日本語で書かれた線型代数の教科書は, 線型代数のこのような位置付けを初学者に説明する努力をしていないものが多いので, 学部の1年で習う線型代数の講義を普通に受けただけでは, そのことの理解に至らないかもしれないですが, アメリカの教科書のいくつには, 線型代数の数学や数学の応用全般に対する役割について, 初学者に対する丁寧な説明がされているものもあります.

また,これは上に述べた近代的な線型代数とも関連するのですが, クーラントとヒルベルトの解析教程が書かれたときには,この本の抽象的な記述は, 多くの物理学者にとって,必要以上に抽象的なものに見えたかもしれません. しかし,この少し後に量子力学が導入されたときに必要となったのは, まさにこの解析教程で展開された数学でした.

上で,「正しい」方向を向いている「抽象のための抽象化」と言いましたが, この「正しい」は最初から数学者の直観によって見極められている場合もあるのですが, 後になって,色々やってみたうちの一つが正しいことが分った, という流れをとる場合もあるし, 最初は正しくないとして破棄されたものがずっと後になって (この場合の「ずっと後」は数十年の場合もあるし, 数世紀の場合もあります),実は別の意味で正しいことがわかった, という展開になることもあります.だから,色々試行錯誤してみるということも必要で, その意味では, 「遊芸の数学」と上で否定的に表現した数学研究のスタンスも, 実は,大きな数学の流れの中では重要な役割をになっているのだろうと思います.

日本では,「(理知的に) 考えるときの正しい方法」としての数学を行なっている, というような発言には, 「なんと尊大なことを言うか」というような拒絶反応が帰ってきそうな気もします. 今ちょうどヨーロッパに帰ってきているところなので,ここから振り返って見ると, そういうような反応の帰ってくる可能性のある日本,というのがひどく疎ましく感じられます.

そうは言っても,もちろん Universalgenie になる度量のない人が, それを目指すことが必ずしも建設的なことではないかもしれなくて, 少なくとも個人の幸せというような観点からは, 職人の完成度を目指す方がずっと健全なことかもしれないので,この 「なんと尊大なことを言うか」という反応も,全くの空回りではないのかもしれません. しかし,それを言うなら,そもそも数学者の「道」(?) を選ぶことがすでに, (日本での?)個人の幸せとは相容れないものになっているわけなので, そう考えてみると, 「なんと尊大なことを言うか」は,少なくとも数学者 (を自認している人) に対しては御門違いのコメントでしかない, と言っていいのではないでしょうか.

かつて岡潔は, 「野原の中で咲いているすみれは自分が野原のどこで咲いているかを知っている必要はない」, というようなことをどこかに書いたことがあったと思います. 今手元に文献がなくて記憶で書いているので, 文言は正確ではないかもしれませんが. これは, 「数学なんか研究して何になるのか」というような質問をしつこくされて, 嫌気がさして言った言葉だったのかもしれませんが,とりようによっては, すみれの分際で自分が野原のどこに咲いているかを知ろうとするのは尊大なことだ, と言っているようにも読めます. これは和算的人生観とは言えるかもしれませんが, 西洋数学の伝統に連なる数学を研究しているものとしては (ちなみに私の学問的祖先には, オイラーやライプニッツや彼等の前後の世代のフランスの数学者たち, カントやフィヒテなどのドイツの哲学者などが含まれています (詳しくは ここをご覧ください)), たとえすみれにすぎなかったとしても, 自分が野原のどこに咲いているかを見極めつつ可憐な花を咲かせたいと思うのです. この宇宙の夢を見ているすみれの思考が, 宇宙全体 (の認識) を根底から覆してしまうような胡蝶効果 (butterfly effect) を起こさないという保証だってないわけですから.

[この項はまだ書きかけです.]


Title: 宇宙図書館
created on: 17.09.21(木09:35(CEST))
updated on: 17.10.08(日06:03(CEST))
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ストックホルムでの Logic Colloquium の折,David たちと夕食に行った. どの学会に行っても親しい人たちの誰かと会えるのは楽しい. 入ったレストランは韓国料理の店だったのだが,そこに行く前に David がちょっと面白い図書館を発見したので,と言うので, ストックホルム公立図書館の建物に立ち寄った.

Gunnar Asplund (1885--1940) 設計の 1928年開設の図書館で, Wikipedia によると, この建物に隣接する拡張の計画のコンペティションで日本にもゆかりのある(らしい) Heike Hanada というポツダムにオフィスを持っている建築家が優勝したということである.

universal library

  

David は 「ナチの建築もそうだけど, この時代の建築は威圧的でどうもね」などとも言っていたが, もしこの街に住んでいたとしたら,この図書館に毎日通って一生を終える, という人生を送るのもいいかな,と一瞬思ったのだった.

「宇宙図書館」というのは universal library の意図的な誤訳だが, この記事を書いてからしばらくして, ユーミンの 『宇宙図書館』がまさにこの Asplund の図書館からインスパイアされたものだったらしい, という記事をインターネットで見つけてびっくりした.


Title: ショパン
created on: 17.09.10(日14:14(CEST))
updated on: 17.12.16(土01:25(JST)), 17.09.21(木21:37(CEST)), 17.09.17(日18:07(CEST))
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一昨日ポーランドの Będlewo (Poznań の郊外の村で, ポーランド科学アカデミーの数学コンファレンスセンターがある) で開かれていた ''Set Theoretic Methods in Topology and Analysis'' というワークショップで, 招待講演を行なった.この講演は結構うまくいった,と思う (講演のスライド). 後で,学会の招待講演者の一人だった Menachem Magidor 先生や,学会のオルガナイザーで, 彼の誕生日を祝うというのが学会の趣旨の一つだったので実はメインゲストでもあった Aleksander Błaszczyk 先生や,僕のかつてのドクター論文の指導教官だった Sabine Koppelberg 先生などから,良い講演だったといって褒められた. 少なくとも Menachem や Sabine は御世辞では褒めない人たちなので, 講演は本当に悪くないものだったのではないだろうか.

しかし,驚いたのは,その講演の直後に David Fremlin 先生が演壇に上がってきて, 本 (後で手漉き紙のつつみを開けてみたら,彼の叔母さんでミステリー作家だった Celia Fremlin 1914-2009 の代表作のペーパーバックだった) をプレゼントしてくれたことだった. しかも,「すばらしい講演もそうだが, 先日のピアノのコンサートに感謝して」ということだったので更に面くらってしまった.

確かにこの講演のあった日より前,夕食の後, 学会会場の食堂としても使われている, 昔ここを所有していた貴族のお城の中の一室に置いてあったアップライトピアノを遊び弾きして, 弾きおわって気がついたら結構の人数の人が演奏を聞いていたことが分ってびっくりしたことが何回かあった. しかし,これはかなりいいかげんな演奏で, そのうちの1回は晩餐のワインを飲んでからの演奏だったので, いいかげん以上 (以下?) のものだった . そのうえ,このピアノはメゾフォルテしか出ないような,どうしようもない楽器で (''Europa'' という聞いたことのない銘柄のアップライトピアノだった. 中は見ていないがタッチが他のピアノと全く違っていたので独自のメカニックが使われているのかもしれない. しかし何しろ表現の可能性が限定されすぎていて, クラシック音楽を弾くための楽器とは言えない代物だった), そのことだけからでも,ちゃんとした演奏をすることは不可能に思えたし, 褒めるのなら,もっと良い楽器で, (しらふで) 気持よく細かいニュアンスまで演奏できたときにしてほしい,というのが本音だった.

The Mathematical Research and Conference Center Będlewo   Europa

  

それにもかかわらず,このどうしようもないピアノを何度も弾いてしまったのは, ピアノが置かれていたのが, ショパンがまだポーランドで天才少年だったころに請われてピアノを弾いたであろう貴族の館と同じ時代の, やはり貴族の所有していた多分同じような間取りの建物で, だから, 幼いショパンがホームコンサートなどでピアノを弾いたときのアクスティックスもここと同じようなものだったのではないか, という興味からだった.それで, 指になじんでいなかったのでエコセーズなどショパンがまだポーランドにいた時期のピアノ曲こそあえて弾かなかったものの, 普段は人前では絶対に弾かない Preludes のうちのいくつかやワルツなども弾いてみた.

僕の講演があったのは学会の最終日で,この日は, ピアノがあまりにひどいのでもう弾くのはやめようと思っていたのだが, 本までもらってしまったので,夕食の後にもう一度このピアノの弾きおさめをした. 疲れていたので,早々にやめてしまったが, 弾いたのはムズィカ・カヤダの第1集とショパンを何曲か (このときにサービスで e-minor prelude --- James Rhodes が「こんな曲があなたも弾けたら素晴しいでしょう?」と言ってこれを弾いている YouTube の post がある --- や「雨だれ」も弾いたんじゃなかったかと思う),それにラベルの死せる王女へのパヴァーヌ. さそうあきらの『神童』を読んで以来,この楽器を弾くのはこれが最後, というときにパヴァーヌを弾くというのが僕の儀式のようなものになってしまっている. スタちゃんには及びもつかないくそピアノでも, 弾くのはこれが最後というときには,ちょっとは名残り惜しい気もする.

● 上で数学者の名前に 「先生」をつけたが, これは,ここで触れた人たちが, この敬称をつけるのが自然な高名な数学者たちだからでもあるが, 実際に彼等が全員僕より年齢が上の人たちだったからでもある. 最近,出席した学会で参加者の中で僕が最年長であることが判明して, ちょっと居心地の悪い思いをする, ということが時々起るようになっているのだが,そのような学会に比べると, この学会の参加者の平均年齢はかなり高かった,と言える. ここで挙げた人たちのうち,残念ながら Sabine は研究からリタイアしてしまったが, 他の人たちは皆,今も精力的に研究を続けている. 僕より年長の数学者でまだ元気に研究を続けている人が沢山いるのを見ると勇気がわく.


Title: アナクレオンの墓 (2)
created on: 17.07.21(金08:30(JST))
updated on: 17.08.02(水07:00(JST)), 17.07.21(金08:30(JST))
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先日 대전(大田) で開催された Asian Logic Conference に参加した. 学会の中日にエクスカージョンで,공산성(公山城) と무령왕릉(武寧王陵) を訪れた. 博物館の館員でガイドはボランティアでやっているという女性の,英語はたどたどしいけれど熱心な説明に, ときどき言っていることが分らなくて,韓国語の分る人に説明を補足してもらったりしながら, 耳を傾けた.武寧王陵では,墳墓群の丘の背後には,Geumgang River が流れていてその背後に丘陵地帯が続いている,という説明を聞いて, ゲーテの「アナクレオンの墓」を思い出していた.

Frühling, Sommer, und Herbst genoß der glückliche Dichter;
Vor dem Winter hat ihn endlich der Hügel geschützt.

春,夏,秋を,この幸福な詩人は満喫したが
遂に来た冬から,彼を墓陵が守ってくれているのだ.


Title: 数学基礎論
created on: 17.07.16(日18:05(JST))
updated on:
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以下は, 今書いている強制法の教科書の前書きに含めようかどうしようかと逡巡している断章である:

数理論理学は, 19世紀後半以降,数学の (数学的,哲学的 etc.) 基礎付けとの関係で発展してきた分野であり, 日本語での「数学基礎論」という分野の名称 (?) もそのことを示唆するものであろう. ただし,日本語で「数学基礎論」と言ったときに, その示唆する研究分野のイメージは, 英語で ''Logic'' ないし ''Mathematical Logic'' と言ったときに起想するそれとはかなり違ったニュアンスを持ったものになっているようにも思える (ちなみに私は自分の研究を,この ''Logic'' ないし ''Mathematical Logic'' に属すものと思っているので, 「ご専門の数学基礎論では …」などと言われことがあると,数学と縁のない人から 「数学をやっているのなら計算がお得意でしょう」というようなコメントを頂いたときと同じような異和感を感じる).

しかし,近年,数理論理学は,計算機科学との関連のみにおいて 論じられたり講義されたりすることが多くなっており, そのような導入のされ方が採用されることで,数理論理学の旧来の数学との関連や, 最先端の数学としての数学の他の分野との共生 (symbiosis) の可能性が見えきにくくなっているように思える. 本書での数理論理学の扱いが,そのような 欠落を補うための役割を少しでも果してくれることを願うものである.


Title: アナクレオンの墓
created on: 17.07.14(金23:05(JST))
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Wo die Rose hier blüht, wo Reben um Lorbeer sich schlingen,
Wo das Turtelchen lockt, wo sich das Grillchen ergötzt,

Welch ein Grab ist hier, das alle Götter mit Leben
Schön bepflanzt und geziert?, Es ist Anakreons Ruh.
Frühling, Sommer, und Herbst genoß der glückliche Dichter;
Vor dem Winter hat ihn endlich der Hügel geschützt.

(Johann Wolfgang von Goethe)

ANAKREONS GRAB

  
Title: 左きき用のカップ
created on: 17.06.29(木09:42(JST))
updated on:
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右利きの人は, 社会 (「日本の」という縛りのある意味の「社会」でも, もっと一般的な意味での「社会」でも) が左利きの人々を差別していることに, 全く気がつかないことが多いのではないだろうか? 何らかの差別が確立されているときに,差別をする側が意識的にか無意識的にか, その差別の存在に気がつかない,というのも,普遍的に見られる一般的な現象なのかもしれないが.

日本は,左利きの差別の強い国だと思うが,東アジアの中ということでは, この差別は比較的穏便なものである,と言えるかもしれない.しかも, 左利きの日本の社会でのステータスは近年ずいぶん変ってきているかもしれない.

大学に務めていると試験の監督をしなくてはいけないことが少なくないのだが, これは左利きの統計をとる格好の機会である. そのような機会に左手で文字を書いている人を観察してみている経験から言えることの1つに, 近年左ききの若い女性がとても増えている,ということがある. これは,左利きのアカデミックの女性が増えている, ということなのかもしれないが, 最近店舗のカウンターで仕事をしている日本人の女性で左ききの人に何人か遭遇したりもしたので, 特に大学で理科系の勉強をしている女性だけに限った現象でもなさそうである.

僕の世代では, 左ききは子供のときに矯正されることが多かった. 特に女性は,例の 「お嫁に行けなくなる」という普遍的(?)判断によって, 厳しく矯正されることが多かったのではないだろうか. それが最近変ってきた,ということなら,これはどういう変化を意味するのだろうか?

日本はヨーロッパやアメリカに比べると,社会の (社会の仕組自身や,その文化で固定されたものや, その中にいる人の) 左利きに対する差別がかなり大きいと言えるように思うが, アメリカ合州国については,何十年ぶりかで右利きの大統領の政権が確立したことから, これから,アメリカでのこの差別のゆるやかさに変化が出てくるかもしれない.

少なくとも,ユニバーサルデザインの観点からは, 日本は,意識的に右利き用にデザインされたもので溢れている. 日本製のバターナイフや急須, 電気アイロンなど,すべて右利き用とするためのアンティシンメトリーが加えられている.

左利き用のはさみ, 包丁,ワインのコルクぬきなどを, 少し余計にお金をはらうと買うこともできるのだが, 日頃右利き用の製品を無理して使うことに慣れていると, 逆に左利き用の製品を自然に使おうと思ったときには特別なトレーニングが必要になる. (バターナイフについてはスウェーデン製のシンメトリカルなものを買ってきて使っている)

こういった「左利き用製品」に対する揶揄として 「左利き用のカップ」というジョークがある (日本語ではコップと言うとガラス製で持ち手のないものを指し, カップというと持ち手のあるものを指すことに注意). しかし,僕が家で使っているマグは本当に右利き用である. これは日本の製品ではなく,韓国の Starbacks cafe でかつて売っていたマグで, 훈민정음 (訓民正音) のテキストが側面に書いてある.

훈민정음

取っ手は龍を象っていて,この取っ手を握ると龍の角が親指の下にくる. 数年前に学会で韓国に行った人におみやげとして貰ったものである. この龍の取手の右側のマグの本体には,金色 (microwavable にするために金属を含んでいない金色に見える染料を使っている) で 「훈민정음」と浮き彫りになっていて, 左手で取っ手を持ってマグから飲むと,この浮き彫りが唇に触れるのである. 大きくて重いマグなので, 無意識的に利き手で持つと,このマグからコーヒーを一口飲むごとに, 훈민정음から僕が左利きであることの罰を受けているような気分にさせられる.
Title: The time tunnel
created on: 17.02.22(水16:37(JST))
updated on: 17.02.25(土22:24(JST))
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ニューヨーク滞在中の週末に Brooklyn にある Transit Museum を訪れた. ここは,廃駅になった地下鉄の駅を改造して作ったニューヨークの公共交通の博物館で, かつてのプラットホーム (「かつての」, と言っても,実はプラットホームを含めてこの駅への引込線は現在でも健在で, いつでも使えるような保守がしてあるということである) には,それぞれの時代の vintage trains が停車している.車両の中には,対応する時代の広告の掲示が再現されていて, これらの車両や広告を見てゆくと,ニューヨークのその時々の "街の臭い" をかぐタイムトラベルをすることになる.

特に興味深かったのは,第二次世界大戦/大平洋戦争の時代の広告だった. 日本の「欲しがりません勝つまでは」の余裕のなさとはまったく対照的な状況を示唆する広告ではあるが, ニューヨークが総力戦としての戦争を真剣にサポートしていたことがうかがえるものだった. 冷戦時代の興味深い広告もあったが,この話はここでは省略する.

下の写真はニューヨーク州出の"ヒーローズ"をたたえるポスターと, 「結核は勝利を遅らせる」というレントゲン検査をうながすポスター. ポスターでの敵の名前は,ドイツが NAZIS と政党の名前で呼ばれているのに対し, 日本は JAPS, NIPS と国全体,総国民を指す蔑称が使われている. これは,戦時中, アメリカ (やカナダ) で日系人が国籍が日本かどうかにかかわらず concentration camps に送られたのに対し, ドイツ系アメリカ人がそのような扱いを受けなかったという違いにも対応していると言えるだろう. ただし,ドイツ系人も敵性国人として良い扱いは受けなかったようで, たとえば,wikipedia によるとトランプ大統領の家は, 戦争中には自分たちがドイツの血筋をひくことをひたかくしに隠したということである.

ちなみに, 今日 (17.02.25) ネットにあがった ARD のコメントに "..., können wir uns hoffentlich wieder wichtigeren Themen zuwenden. Trumps Russland-Verbindungen zum Beispiel, oder seinen zahllosen Interessenkonflikten, oder seinem angespannten Verhältnis zur Wahrheit. Denn eines muss dem Weißen Haus klar sein: Kritischer Journalismus funktioniert auch ohne Kooperation." とあったが, "sein angespanntes Verhältnis zur Wahrheit" に関しては,このドイツのルーツをひた隠しにした,というトランプ家の歴史は, その大きな背景の1つになっているのではないかという気がする.

      THE NIPS AND THE NAZIS

  
Title: アンナ=マグダレーナの音楽帳
created on: 17.02.21(火19:10(EST))
updated on:
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先日ニューヨーク市立大学 (CUNY) の集合論セミナーで話をしたとき, Philipp Rothmaler 氏が聞きにきてくれた.私がベルリンに住んでいた1990年代前半ごろ, 氏はキール大学で助手をしていたので, ドイツでの研究集会などでよく会っていたのだが,その後会う機会が全くなくて, 今回会うのは20年以上ぶりだった. 当時,彼はポニーテールだったが, 今では短い髪型で,逆に僕の方がポニーテールの髪型である. 講演の後「憶えているかどうか分らないけれど」と言ってドイツ語で (Siezen で) 話かけてくれたのだが, 彼が CUNY で教えていることは去年ニューヨークに来たときに他の人から聞いて知っていたのに, 一瞬誰だか分らなかった.

その週末に Rothmaler 氏の家に招待された.お客さんが来るときの料理は彼の担当ということで, 美味な料理とワイン apple cider (ベルリンの Apfelschorle のような軽く発酵した飲み物) をいただいた. 彼の家には, Elton John が昔弾いたことがある,といういわくつきの白いヤマハがあって, 譜面台に乗っていたアンナ=マグダレーナの音楽帳の Henle 版の楽譜を遊びびきしてみた.この曲集の中には,François Couperin の 6me Ordre の Les Bergeries が含まれている,というのがずっと気になっていたことだった. これは,Couperin の Bach に与えた影響を評価するときの重要な資料の1つと言えるだろう. 実際 Henle 判の譜面にもこの曲が含まれていた. 弾いてみると,譜面づらが原曲と全く違っていて (たとえば ABACA の A の部分の伴奏は Couperin 特有の "リュート書法" (style luthé) ではなく一声の線として書かれていた. この "リュート書法" は Bach 自身 Partiten の中の遅い曲などでは取り入れている書法なので, ここでそれが採用されていないのは,この曲が Bach に伝わったときにすでにこの形になっていたのでなければ,Bach 自身の初心者への配慮からの編曲だろう) 修飾音もかなり違っていた. Henle 版は原典版と称しているので, 多分 Bach の書法のある程度正確な再現になっているのだと思うのだが, この曲がどういう経緯で Bach に伝わったのかは非常に興味があるところだ.

原曲とすごく違う気がして,びっくりしながら弾いていたのだが,後で帰ってから楽譜を比較してみると, 逆に,(この曲が,何回かの写譜を経由して Bach に伝わったのだとすると,それにしては) 原曲が非常に忠実に保たれている, とも言えるように思えてきた.


伯母野山日記の2012年から2016年までの記事
伯母野山日記の2012年以前の記事
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Last modified: Sat Sep 21 14:27:59 JST 2019