起稿 2010年 2月 2日(火) ・ 最終改訂 2022年8月31日(水) [2022年 7月 9日(土), 2021年 8月13日(金)]
渕野 昌 (Sakaé Fuchino)
以下は,1930年(昭和5年)9月8日(月)に Königsberg (ケーニッヒスベルク)で開催された 独逸科学者医学者協会の学会でヒルベルト (David Hilbert 1862 -- 1943) が 行なった講演を要約したものの, ヒルベルト自身の朗読による ラジオ放送 を書きくだしたもと,その日本語訳である. 日本語訳は内容が正しく伝わることを主眼にしたため, 多少意訳気味になっている部分もある. それにもかかわらず,全体として原文のスタイルの持っている時代感に対応するような, 古めの語彙や言いまわしを用いる工夫も多少はしている.ヒルベルトのドイツ語は,彼の出身地である Königsberg の里言葉 (Mundart) なのだろう.もちろん文言は標準語 (Hochdeutsch) であるが, 彼の生まれ故郷でのラジオ録音だったので, 意識して Königsberg の発音で原稿を読んでいるかもしれない,私には, この (ドイツ語圏から) 消えてしまった場所の言葉は, 現在のドイツではこれまでに聞いたことがないものに思える. ベルリン語のように g の発音をのみこんで j に近いものになる発音や,ウイーン語のように ,,ei'' が 「エイ」に近い発音になることなど, 各々の部品はどこかの場所の言葉で聞いたことがあるものなのだが, 全体をあわせて聞いたときの印象は「どこにもない」としか言いようのないものである. カントや,ミンコフスキーや,ケーテ・コルヴィッツも,こんな言葉を話したのだろうか?
1930年と言えば90年以上前であるが, 数学の意義や科学の価値といったことに対するヒルベルトの主張は, 今でも,そのアクチュアリティを全く失なっていないと思う. 特に,このヒルベルトの講演の最後のパラグラフが, ゲーデルの不完全性定理によって有効性を失なってしまった,と主張する人がいるけれど, そういう主張こそヒルベルトの言うところの「不可知論」そのものであり,私は,これは全くそうではないと思う. このことについては,たとえば: 『数とは何かそして何であるべきか』, リヒャルト・デデキント著, 渕野昌 翻訳/解説,ちくま学芸文庫 (2013) の付録の解説などでも論じた.
ここでは,ごく平たい言葉で (不完全な) 補足をすることにすると, 不完全性定理がその可能性を否定しているのは,いっぺんにすべてのことを 『知』ってしまうことであり, どこまでも知識を深めてゆけることの可能性を否定しているものでは全くない. もし人類のミッションが,ヒルベルトも引用しているヤコビの言葉でのように, 「その知性の尊厳を守る」ことだとすれば, 不完全性定理の言っていることは,むしろ, 人類がそのミッションを遂行してしまい,その存在意義を失なってしまうことは,永劫にありえない, ということだと解釈できるだろう.
[原文] Das Instrument, welches die Vermittlung bewirkt zwischen Theorie und Praxis, zwischen Denken und Beobachten, ist die Mathematik; sie baut die verbindende Brücke und gestaltet sie immer tragfähiger. Daher kommt es, daß unsere ganze gegenwärtige Kultur, soweit sie auf der geistigen Durchdringung und Dienstbarmachung der Natur beruht, ihre Grundlage in der Mathematik findet. Schon GALILEI gesagt: Die Natur kann nur der verstehen der ihre Sprache und die Zeichen kennengelernt hat, in der sie zu uns redet; diese Sprache aber ist die Mathematik, und ihre Zeichen sind die mathematischen Figuren. KANT tat den Ausspruch: ,,Ich behaupte, daß in jeder besonderen Naturwissenschaft nur so viel eigentliche Wissenschaft angetroffen werden kann, als darin Mathematik enthalten ist'' In der Tat: Wir beherrschen nicht eher eine naturwissenschaftliche Theorie, als bis wir ihren mathematischen Kern herausgeschält und völlig enthüllt haben.
Ohne Mathematik ist die heutige Astronomie und Physik unmöglich; diese Wissenschaften lösen sich in ihren theoretischen Teilen geradezu in Mathematik auf. Diese wie die zahlreichen weiteren Anwendungen sind es, den die Mathematik ihr Ansehen verdankt, soweit sie solches im weiteren Publikum genießt.
Trotzdem haben es alle Mathematiker abgelehnt, die Anwendungen als Wertmesser für die Mathematik gelten zu lassen. GAUSS spricht von dem zauberischen Reiz, den die Zahlentheorie zur Lieblingswissenschaft der ersten Mathematiker gemacht habe, ihres unerschöpflichen Reichtums nicht zu gedenken, woran sie alle anderen Teile der Mathematik so weit übertrifft. KRONECKER vergleicht die Zahlentheoretiker mit den Lotophagen, die, wenn sie einmal von dieser Kost etwas zu sich genommen haben, nie mehr davon lassen können. Der grosse Mathematiker POINCARÉ wendet sich einmal in auffallender Schärfe gegen TOLSTOI, der erklärt hatte, daß die Forderung ,,die Wissenschaft der Wissenschaft wegen'' töricht sei. Die Errungenschaften der Industrie, zum Beispiel, hätten nie das Licht der Welt erblickt, wenn die Praktiker allein existiert hätten und wenn diese Errungenschaften nicht von uninteressierten Toren gefördert worden wären. Die Ehre des menschlichen Geistes, so sagte der berühmte Königsberger Mathematiker JACOBI, ist der einzige Zweck aller Wissenschaft. Wir dürfen nicht denen glauben, die heute mit philosophischer Miene und überlegenem Tone den Kulturuntergang prophezeien und sich in dem Ignorabimus gefallen. Für uns gibt es kein Ignorabimus, und meiner Meinung nach auch für die Naturwissenschaft überhaupt nicht. Statt des törichten Ignorabimus heiße im Gegenteil unsere Losung:
Wir müssen wissen,
Wir werden wissen.
[日本語訳] 理論と実践,思索と観察の仲介をする装置が数学である.数学はこの橋渡しを築き, それを益々強固なものにしてきた.それ故,我々の現代の文明のすべてについて, それが,知力の完徹と自然の利用とによりなされているかぎり, その基礎を数学に求めることができるのである.すでに ガリレイ は, 自然が我々に語りかける言葉とその記号を学んだもののみが自然を理解できる, と言っているが,この言葉とはまさに数学であり,その記号とは数学的構造である. カント は, 「個々の自然科学の分野において, その分野が数学を含んでいる度合が,その分野の独立した科学としての度合である, と主張したい」という格言を残している. 実際,我々が自然科学での理論を真に手握できるのは,その数学的な核が抽出でき, それが完全に理解できてからである.
数学がなかったとしたら,現代の天文学や物理学もなかっただろう.これらの科学では, その理論的な細部は数学とほとんど区別のできないものとなっているからである. これらの,そして数多くのその他の応用が, 数学を他の分野から一目おかれる存在にしているのである.
それにもかかわらず,数学者は皆,数学の価値をその応用で測ることを拒絶してきた. ガウス は,数論がこの最大の数学者の一番好きな科学となるにいたった,その不思議な魅力について語っているが,数論の,他の数学の領域と比べても圧倒的な,無尽蔵の豊饒さについては言うまでもない. クロネカー は数論の研究者を,一度この佳肴を食べるとやめられなくなってしまうという蓮を食う (訳者補注: ホメロスのオデッセイに出てくる)種族に例えている. 偉大な数学者 ポアンカレ は,「科学のための科学」という要請はナンセンスだと表明した トルストイ に対して,異様に強い言調で反対したことがある: 「たとえば,産業技術の成果は,現場の人たちだけしかいなくて,この成果を (訳者補注: トルストイの言うところの) ナンセンスを追究する現実に興味を持たない人たちが促進しなかったとしたら,決して日の目を見ることはなかっただろう」. ケーニヒスベルクの有名な数学者 ヤコビ は,人類の精神の尊厳がすべての科学の唯一の目的であると言っている.
昨今,哲学者のような身振りや悟りきったうような言調で文明の没落について予言したり, 科学的不可知論に逃げこんだりする人たちがいるが,我々は彼等の言葉を決して信じるべきではない. 我々にとって不可知論はあり得ないし,自然科学全体にとってもこれは全くあり得ないことであると確信する. ナンセンスな不可知論とは正反対に,我々の合言葉は次のようなものである:
我々は識らなくてはならない,
(そして必ずや)識るに至るであろう