教務モニターに寄せられた学生の意見に対する回答

渕野 昌 (Sakaé Fuchino).


学生からの意見,要望: 授業の最初から最後まで,黒板に板書をして, 黒板に向って解説をして進む授業がある。まるで黒板と授業を行なっているようである。 黒板に書くときは,仕方ないと思うが,反対方向に解説をされても聞きとりにくいので, できるだけ学生の方を向いて説明をしてほしい。
渕野昌の回答: これは私の「ベクトル解析」の講義に対して寄せられた意見のようです. 板書の量が多いということのようですが,板書の量は講義の内容にも依存しているので, もっと板書の少ない講義もあるだろうとは思います.しかし,私のこの講義の内容に関しては, 決して必要以上に多いというわけでもないと思います. 板書の量に比べてあまり本格的なところまで話を進められていない, ということは言えるかもしれませんが,これは後で述べるような事情を考慮した上のことです.

コメントをしてくれた人は, 大学の理学や数学の本格的な講義を受けた経験がないために, そのような印象を持ったのではないでしょうか. ただし,この講義や中部大学で受けもっている他の数学の講義に関しては, 板書に依存しなくてはいけなくなる幾つかの特殊事情があるので,それについては以下で 説明したいと思います.

中部大学の工学部の数学のクラスは,能力別のクラス編成をしている場合でも, クラスの中の数学的な能力や知識にかなりのむらがあります.そこで, できるだけ前提知識を仮定せず話をすることにすると, 説明しなくてはいけないことが非常に多くなってしまうのです. 口頭でさっと復習して本論に入るというようなスタイルがとれなくなるため, 板書の量もそれに対応して増えてしまう,ということになります.

学生のうち,口頭で説明したことをノートにとれない人が大多数だ, というのも板書が多くなってしまう原因の一つです. これは日本の高等学校までの教育に, 書取りの授業がない, という問題とも関連しているのだと思いますが. そのため,必要なコメントは口頭で言うだけでなく, 極力板書をするということをしないと, こちらの話したことが素通りになってしまうという危険があります.

これに関して,教務モニターの上のコメントをいただいた後で, 次のような実験をしてみました: 先日,教務モニターでコメントをいただいたのと同じ,「ベクトル解析」の講義で中間試験をしました. 時間の前半で講義をして,その中で, 「ここは今日の試験で出している最後の問題と関連がありますよ」という注意をして, ほとんど試験に出した問題の答になっているようなヒントを, わざと黒板に書かずに口頭のみで説明してみたのです. 問題は自体はちょっと難しいものだったかもしれないですが, 私が口頭で行ったヒントがあれば絶対に誰でも解けるはずのものでした. 試験は教科書ノート持ち込み可だったので, このコメントもちゃんとノートにとっていてくれていれば試験のときに参照できるはずだったのですが, 結果は惨憺たるものでした. この問題に手がつけられた人はほとんど誰もいなかったのです.

使っている教科書が理想とはほど遠いものである, ということも板書が多くなる原因の一つです. この講義は平行して走っているいくつかの同名の講義の一つなので, 教科書も他の平行して行われている講義で用いられているものと合わせるしかないため, 他のものを指定するとか,自分で書いたものを使う,ということができないのです. 特にベクトル解析で用いている教科書は, もともとそれの4倍くらいの量のあった教科書のダイジェスト版なので, 細部の説明がすべてはぶかれているため, 教科書の要点や, そこに出ている定理や命題は教科書の番号付けやページ数でできるだけ参照しながら, 私自身が最良と思うやりかたで全体を再構成する, というスタイルの講義にならざるを得ないのです.そのため, 板書するかわりに教科書に書いてあることをなぞって説明する, というようなやり方ができないのです.

上で「教科書に書いてあることをなぞって説明する」と言いましたが, 実は,私は,理想的な教科書を使っている場合でも, 板書をして説明することの必要性はある,と思っています. 板書をしながら説明することで,学生は, 数学のアイデアの発展のさせ方や,技術的な細部の生成過程をリアルタイムで見ることができるので, その際の頭の使い方を学ぶことができると思うからです.

もちろん上で言ったことは, すべて手抜きの講義をすれば避けて通ることもできます.大学の先生の中には, 「どうせあいつらは教えても分らないのだから難しいことを教えても仕方がない」 というようなことを仰る方もいます.しかし,私は大変であっても, 手抜きの講義に逃げる気はありません.学生に,予備知識が不足していたり, 思考能力のリソースが多少不足していたりしても,集中力さえ発揮できれば, ちゃんとフォローできるような本格的な講義をする, というチャレンジに真剣勝負で挑んでいるつもりです. これをどれだけ消化できるかは皆さんに向けたチャレンジです.

また,初歩的な部分からはじめて丁寧に説明しているため, 講義の内容はそれほど本格的なところまでは進められませんが, そのことと講義を日本語でやっている,という点を除くと, たとえば, 日本の東大とか京大などよりもっとずっとレベルの高いような外国の大学で同じように講義したとしても, 恥かしくないような講義にする,ということをいつも心掛けてもいます.

それから,皆さんの中には, 私の講義のスタイルだと難しすぎる,と思う人も少なくないかもしれません.しかし, その場合,たとえ講義で追いきれない細部があったりしたとしても, 講義科目で考察している理論(この例ではベクトル解析の理論)で, どのような種類のマシナリーがどのくらいの精密さで発動しているのか, ということについての感覚はつかんでいただけるのではないかと思うのです.

最後に,『反対方向に解説をされても聞きとりにくいので, できるだけ学生の方を向いて説明をしてほしい。』 という点について, 述べておきたいと思います.教室のアクスティックについては自分では分らないので, たしかに意見を言ってくれた人の指摘するように, 板書をしながら話すと後の方まで通りにくいのかもしれません. 昔,ケルン歌劇場のオペラ監督の演出の助手のアルバイトをしたことがあって, そのときに「君の声は通らないから」と言われたことがありましたが, 私の声の質にも問題があるのかもしれません. もちろん,マイクを使うということも考えられるのですが, スピーカーを通して聴く声は臨場感が下るのでできるだけさけたいと思っているのです. ただ,『よく聞こえない』というコメントをする人には, 教室のどのあたりに坐って聴いていたのかを言っていただきたいと思います. もし最後の3列くらいのところに坐って聴講していた人のコメントなら, コメントを言った人に,もっと前に坐ってきいてください,と言いたいし,逆に, それが最前の3列くらいのところに坐って聴講していた人のコメントなら, 少し真剣に対策を試みなければいけないと思います.


Last modified: Mon Oct 12 00:10:28 +0900 2015