音楽のページ

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2003年6月25日に中部大学で開講された「総合科目」の講義の一つとして,trio fibonacci による``現代音楽の''プログラムのコンサートが行われました. (コンサートの解説として trio fibonacci の Gabriel Prynn 氏の書いた テキストとその日本語訳). このコンサートの司会兼通訳の仕事をおおせつかったのを機会に, 音楽関係のコンテンツを書き加えることにしました.

まず総合科目のブックレットに書いた文章に手を入れたものや,それに関連したリンンクなどから始めることにします:

私はドイツ在住中には数学の研究の他,コンピュータを使った音楽の作曲活動をしていました. といっても,音符のデータをコンピュータに打ち込んでそれを演奏させるという意味の「コンピュータ音楽」ではなく, 音楽の構造を自動的に生成してくれるようなコンピュータ・プログラムを組み,そのプログラムを走らせているコンピュータを``演奏''する,という種類の音楽です. 当時の作品のいくつか: ``your brain has the weight of an apple pulled to the centre of the earth'', for computer (1988), ``Variationen'' , for computer and piano(1990), ``Farbenlehre III'' , for computer and piano (1994). これらの作品を含め私の作曲した(コンピュータ・ソロやコンピュータと声や楽器のための)作品はドイツや日本(東京や大阪)などで演奏されました. 1997年に日本に移住して以来,研究環境が変った結果, 自分の研究のための時間も十分に確保できなくなってしまっているため, 現在,作曲の方は開店休業状態です.

現代数学と現代音楽

私が中部大学の工学部で教えている基礎教育の数学は,内容的には主に 19世紀以前の数学です. 一方私が数学の研究で創っているのはもちろん21世紀の数学ですから, 200年近くの時間差があって,講義で教えている数学とは 内容的にも思想的にも美学的にも,かなりのギャップがあります. 実は音楽でも似たような状況があります. 皆さんが普通に耳にするクラシック音楽の作品のほとんどは 1920年代以前に作曲されたものだと思うのですが,そうすると (クラシック音楽の)作曲の現代の最前線とは 80年くらいの時差があることになります. 残念ながら,数学の場合,先程言った200年の時差を乗りこえて 現代数学の意義を理解するためには,特別の才能と努力が必要のようです. 現代の音楽においても,その最前線で(高レベルの)創作活動を行うには, 少なくとも数学者が必要とするのと同じくらいの才能や努力が 必要になるのでしょうが,現代音楽を観賞したり理解する, ということに関してなら, 状況は現代数学よりはずっと希望が持てるのではないかと思います. それは,先ほど言った80年の時差は, あなたの感性でいっぺんに乗りこえられてしまうかもしれないからです. 音楽は数学と違って自分なりの主観から出発して作品を観賞することができます. 音楽を観賞するあなたにとっての現代音楽の体系が形成されればいいわけですから. しかも,音楽を注意深く聞くことで「あなたにとっての現代音楽の体系」を形成する, という作業は,それ自身すでにある種の創作活動であるとも言えると思います.

音楽は一つか?

「音楽は一つだ」という標語があります. 「音楽は世界の言葉だ」という標語もあります.
でも,これは本当でしょうか?
このような標語は,「自分のやっている音楽が唯一の音楽だ」, 「自分の音楽は世界中の誰にでも通じるはずだ」という傲慢さや, 「自分たちの作っている音楽は世界中に売りつけられるはずだ」 というような音楽産業帝国主義の表明の言いかえではないと 断言できるでしょうか?
実のところ,音楽は一つではなくて沢山あるし, 一つ一つの音楽の文化圏の言葉を分るためにも, 駅前の(?)英会話学校で英語を習うように, そのひとつひとつの(音楽の)言葉を習う必要だってあるのだと思います.
外国語の詩の朗読を聞いていて意味が分からないのに感動することがあります. タルコフスキーの映画の中でプーシキンの詩や タルコフスキーのお父さんの詩が朗読される場面なんか, ひどい字幕の訳なのに聞いていて涙が出てきてしまいます. でももしその言葉がわかるのなら, その詩の朗読はもっと感動的なものかもしれない.
しかし,もしかしたら,自分の知らない言葉で朗読された詩に感動するのは, こちらがわの思い入れにすぎなくて, 言葉が分かってしまったら幻滅することだってあるかもしれません.
主にヨーロッパの音楽を聞いている耳で 南アジアやアフリカやアラブなどの古来の音楽を聞くときに, 外国語の詩の朗読を聞くのと同じような状況に立たされることがあります. 平均律に飼いならされた耳には. 平均律をはずれた音律は単に「音程が狂っている」としか聞こえないのだけれど, その「音程の狂った」音楽が妙に心にひびいて聞こえることがあります. よく分からないものの魅力,というのは, 安物のエキゾティズムにかなり近くていささか胡散臭いかもしれないけれど, だからといって,これを簡単に否定してしまうのも勿体ないような気がします.
しかし,逆に,これをもって「音楽は世界の言葉だ」 と言ってしまっていいのでしょうか?

上で「音楽の文化圏」という言い方をしましたが, 実は一つの音楽の文化圏の中にも色々な種類の音楽が共存している, というのが普通のようです. ここでは民族学的な見方で音楽を分析してみる余裕はありませんが, 音楽の社会での機能でごくあらく分類しても 「娯楽音楽」,「舞踊音楽」,「宗教音楽」,「背景音楽」,「環境音楽」 などなどタイプの違う音楽が沢山列挙できそうです. またいわゆる``音楽産業''に組みこまれている音楽とそうでないもの,と いうような分類もできるかもしれません. また西洋(もともとはヨーロッパ)のいわゆるクラシック音楽というのもあって, これの位置はなかなか微妙なものです. イギリスの動物学者 Desmond Morris によると, クラシック音楽の演奏会の現代社会における機能は 宗教儀式の代償行為だということですが(ただし, これはヨーロッパの社会でのクラシック音楽の機能について言っているので, エキゾチックな儀式にことかかない魚屋さんの文化の国 日本には必ずしもあてはまらないかもしれません) そうであるとするとクラシック音楽は一種の宗教音楽であることになります. さきほどの ``音楽産業''という観点から見てもクラシック音楽は 音楽産業に組みこまれている部分とそうでない部分があるようです. 実際,クラシック音楽の作品のほとんどは,かなり複雑にできていて クラシック音楽を聞く訓練を十分につんだ人以外には理解不可能のように思えます. そのような種類の「難しい」クラシック音楽はどう考えても 「産業」になりそうにありません.また日本の場合, 「難しい」クラシック音楽が音楽会である程度コンスタントに聴けるのは 東京だけのようです.

難しい音楽

作られたばかりの音楽である, ということも「難しい音楽」の難しい原因の一つになりえます. 「現代音楽」という言葉はクラシック音楽では比較的最近作られた新しい音楽 という意味に使われることが多いのですが (この「比較的最近」ということの解釈は, かなり広いものではありますが ... ) , いずれにしても, 新しい音楽である,ということは, いわゆるイージー・クラシックスの音楽語彙にまだ含まれないような 音楽のアイデアがふんだんに使われている可能性を示唆するので, 新しい音楽イコール難しい音楽という等式を成立させやすくしている と言えるでしょう. 「耳なれない音楽」という印象だけで耳をとざしてしまう人もいるかもしれません. ヨーロッパの言葉の言い回しで「未来音楽」というのがありますが (たとえばドイツ語では Zukunftsmusik),これは「荒唐無稽」と ほとんど同義語です.

一方,作られたばかりの音楽である,ということは, 音楽の作り手が自分と同時代の人である,ということでもあります. 音楽作品自身は時代を越えた普遍的な価値を目ざしているとしても, その作品への足掛かりとしては, 自分と同じ時間を生きている人の作った作品であることが, たとえば200年前に生きていた人の作った作品とは違った近さを与えてくれているかもしれません. また,trio fibonacci のレクチャー・コンサートでもそうでしたが, 作られたばかりの音楽の場合, 作者の肉声の解説を聞けるチャンスがあるという利点も見逃せません. ベートーベンの作品を演奏する演奏会に行っても ベートーベンが出てきて自作の解説をする, ということは(普通には?)望めませんが, たとえば,小櫻秀樹氏の作品を演奏する音楽会では, 作曲家本人の自作の解説が聴ける可能性があるわけです. 〈続く〉

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Sakaé Fuchino <fuchino@isc.chubu.ac.jp>

Last modified: Sun Aug 31 01:16:45 +0900 2008