2003年6月25日に中部大学で開講された「総合科目」の講義の一つとして,trio fibonacci による``現代音楽の''プログラムのコンサートが行われました. (コンサートの解説として trio fibonacci の Gabriel Prynn 氏の書いた テキストとその日本語訳). このコンサートの司会兼通訳の仕事をおおせつかったのを機会に, 音楽関係のコンテンツを書き加えることにしました.
まず総合科目のブックレットに書いた文章に手を入れたものや,それに関連したリンンクなどから始めることにします:
私はドイツ在住中には数学の研究の他,コンピュータを使った音楽の作曲活動をしていました.
といっても,音符のデータをコンピュータに打ち込んでそれを演奏させるという意味の「コンピュータ音楽」ではなく,
音楽の構造を自動的に生成してくれるようなコンピュータ・プログラムを組み,そのプログラムを走らせているコンピュータを``演奏''する,という種類の音楽です.
当時の作品のいくつか: ``your brain has the weight of an apple pulled to the centre of the earth'', for computer (1988),
``Variationen'' , for computer and piano(1990),
``Farbenlehre III'' , for computer and piano (1994).
これらの作品を含め私の作曲した(コンピュータ・ソロやコンピュータと声や楽器のための)作品はドイツや日本(東京や大阪)などで演奏されました.
1997年に日本に移住して以来,研究環境が変った結果,
自分の研究のための時間も十分に確保できなくなってしまっているため,
現在,作曲の方は開店休業状態です.
上で「音楽の文化圏」という言い方をしましたが, 実は一つの音楽の文化圏の中にも色々な種類の音楽が共存している, というのが普通のようです. ここでは民族学的な見方で音楽を分析してみる余裕はありませんが, 音楽の社会での機能でごくあらく分類しても 「娯楽音楽」,「舞踊音楽」,「宗教音楽」,「背景音楽」,「環境音楽」 などなどタイプの違う音楽が沢山列挙できそうです. またいわゆる``音楽産業''に組みこまれている音楽とそうでないもの,と いうような分類もできるかもしれません. また西洋(もともとはヨーロッパ)のいわゆるクラシック音楽というのもあって, これの位置はなかなか微妙なものです. イギリスの動物学者 Desmond Morris によると, クラシック音楽の演奏会の現代社会における機能は 宗教儀式の代償行為だということですが(ただし, これはヨーロッパの社会でのクラシック音楽の機能について言っているので, エキゾチックな儀式にことかかない魚屋さんの文化の国 日本には必ずしもあてはまらないかもしれません) そうであるとするとクラシック音楽は一種の宗教音楽であることになります. さきほどの ``音楽産業''という観点から見てもクラシック音楽は 音楽産業に組みこまれている部分とそうでない部分があるようです. 実際,クラシック音楽の作品のほとんどは,かなり複雑にできていて クラシック音楽を聞く訓練を十分につんだ人以外には理解不可能のように思えます. そのような種類の「難しい」クラシック音楽はどう考えても 「産業」になりそうにありません.また日本の場合, 「難しい」クラシック音楽が音楽会である程度コンスタントに聴けるのは 東京だけのようです.
作られたばかりの音楽である, ということも「難しい音楽」の難しい原因の一つになりえます. 「現代音楽」という言葉はクラシック音楽では比較的最近作られた新しい音楽 という意味に使われることが多いのですが (この「比較的最近」ということの解釈は, かなり広いものではありますが ... ) , いずれにしても, 新しい音楽である,ということは, いわゆるイージー・クラシックスの音楽語彙にまだ含まれないような 音楽のアイデアがふんだんに使われている可能性を示唆するので, 新しい音楽イコール難しい音楽という等式を成立させやすくしている と言えるでしょう. 「耳なれない音楽」という印象だけで耳をとざしてしまう人もいるかもしれません. ヨーロッパの言葉の言い回しで「未来音楽」というのがありますが (たとえばドイツ語では Zukunftsmusik),これは「荒唐無稽」と ほとんど同義語です.
一方,作られたばかりの音楽である,ということは, 音楽の作り手が自分と同時代の人である,ということでもあります. 音楽作品自身は時代を越えた普遍的な価値を目ざしているとしても, その作品への足掛かりとしては, 自分と同じ時間を生きている人の作った作品であることが, たとえば200年前に生きていた人の作った作品とは違った近さを与えてくれているかもしれません. また,trio fibonacci のレクチャー・コンサートでもそうでしたが, 作られたばかりの音楽の場合, 作者の肉声の解説を聞けるチャンスがあるという利点も見逃せません. ベートーベンの作品を演奏する演奏会に行っても ベートーベンが出てきて自作の解説をする, ということは(普通には?)望めませんが, たとえば,小櫻秀樹氏の作品を演奏する音楽会では, 作曲家本人の自作の解説が聴ける可能性があるわけです. 〈続く〉
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