ヨーロッパ文明は終った ? --- 思考障害に向けてのディスコース

渕野 昌(Sakaé Fuchino)

(この文章はまだ書きかけです)

First version of the document: Aug 6 2012

Updated on: Mar 26 2022, Dec 12 2021,
Dec 7 2021, Mar 18 2016

以下の文章は,2012年に書き始めて,2016年以降そのままになっていた文章に手を加えたもの (still a work in progress) です. その間に書き進めた, " 『無限のスーパーレッスン』の hyper-critique" (初版は2014年) と多少重複している部分もあるかもしれません.

* * *

一昔前に書いた,書評 [[[不完全性定理に挑む]に挑む]に挑む] (科学基礎論研究 Vol.41, No.1 (2013) 63〜80) で扱った本の翻訳者・解説者らの数学に対する姿勢が, あまりにも数学に対して否定的に思われたので, それに抗議する意味で,

(α) 『ヨーロッパ文明は終った』というような キャッチフレーズに踊らされた,あるいはそのようなキャッチフレーズを喜んで 受け入れて踊った,あまり頭のよくない ``エリート'' がうようよいた 時代があったようである.『ヒルベルト計画も静かに消えていったのである』 というキャッチフレーズで「数学は終った」とか,「数理論理学は終った」とか,「数学基礎論は終った」 などと勘違いする,あるいは勘違いしたがる人が山のように出てくるのではないかと 恐れるものである.
と書いたところ,このテキストを丁寧に試読していただいた方の1人から,
少なくとも,この 文章だけからは『ヨーロッパ文明は終わった』 というキャッチフレーズに踊らされることがどうして頭がよくない ことなのかは明かではなく,根拠を明示せずに否定的なことを 言うのは,言いがかりか,単純な侮辱ととられる可能性があると 思います.今でも『ヨーロッパ文明は終わった』という キャッチフレーズに喜んでいる人はうようよいると思いますので
というコメントをいただいた.

書評では,この点について,それ以上論じることは避けたのだが, これについて更に論じることで,この批評でとりあげた書籍の翻訳者・解説者らのスタンスに対する 評者の異存のありかを,より詳細に説明する,ことにもなるような気もするので, ここで,改めてこのことについて論じてみたいと思う.

1. 論駁の道具としての 『ヨーロッパ文明は終った』

もちろん,『ヨーロッパ文明は終った』は, 「xxx は終った」,「今はもう xxx の時代ではない」,「日本人には xxx は合わない」 など, 多くの形をとる同様の論駁のパターンの実例の1つの例としてあげているにすぎない.たとえば, 次のような会話の流れを考えてみる:

(β)
話者 A: @#$%4?%^ … (xxx に関する精緻な議論)
話者 B: (話者 A の議論をさえぎって強い言調で) あんたねえ,そんな 難しいことをごたごたならべたって,今はもう xxx の時代じゃないんだよ.
話者 A: … (言葉が継げずに黙ってしまう)
話者 A は話者 B の発言が妥当なものでないことを指摘してさらに自説を続けることもできるだろうが, そうすることは,日本文化でのディスコースとして許容されているスタンダードのパターンでは, ないようである.また,ひところ (つまり,この文章の最初の版を書いた時から,さほど昔でなかった昔に) 話題になった,「事業仕分け」の公聴会でのように 『手短に,かつ知性に欠陥のある人にも分るように話してください』というような要請が事前にあったりした場合には, いずれにしても,ここで話の流れをもとの議論に戻すことはきわめて難しいだろう.

そういうわけで,議論の目的を,相手を言いまかすこと, ととらえたときには,このタイプの発言は, 発言する人の立場や力関係によっては非常に効果的な手立てとなる,と言うことができるだろう.

しかし,たとえば,科学での議論のように,相手を言いまかすことが問題なのではなく, 議論の内容自体が問題となっている場合には,こようなタイプの発言は (その議論の全体にとってだけでなく発言者自身にとっても) 非常に有害である. もちろん,これが議論の内容が問題となっているときに, 相手を言いまかすことが問題だと勘違している人が言った発言なら (この場合には, 自信を持って,このような人を「あまり頭のよくない」人に分類してよいだろう) これはもう問題外である.

そうでない場合でも,たとえば,『ヨーロッパ文明は終った』の例で言えば, この警句の意味しえる主張の幅は,「ヨーロッパ文明が世界を支配している時代は終った」, 「日本文化はもはや明治時代のようにはヨーロッパ文明をその権威付けに必要としなくなった」, 「日本製品はヨーロッパを征服したので日本人は観光地として以外のヨーロッパは忘れてよい」, 「ヨーロッパ文明はアメリカナイズされてもはや昔のヨーロッパはなくなってしまった」,等々, ほとんどなんでもありえるために,議論の相手は, そのような可能な意味すべてに対して反論しなくてはいけなくなり, (いっぺんにそれをすることは不可能なので) 上の (β) でと同じのように,結果として,この警句は相手の歯切れの良い反論を封じることに成功するだろう.

しかし,これは,「相手を言いまかすこと」のレベルでの弁論術としての効果にすぎず, 議論への貢献がないのみならずそれを攪乱するだけだし, さらには,この種類の主張の含意の不確定さが,これを言った人自身の思考も濁らせてしまい, 結果として,得意気にこの発言をしている人の 「あまり頭のよくない」 ことに (そもそもこの種類の内容の不確定な警句を断定的に言ってしまうことに, この種の発言をした人の頭のよくないことが端的に示されていると言えよう), さらに拍車をかけることになってしまうだろう. (α) でも, 「キャッチフレーズに踊らされた, あるいはそのようなキャッチフレーズを喜んで受け入れて踊った」と書いたが, この種の「頭のよくない」状況を助長する,ここで述べたようなタイプ発言の背景に育ってしまう思考は, 非常によく伝染する.そのような種類の発言を聴くたびに, 不安になって,手を洗って消毒をしたくなる衝動にかられてしまう, というのは誇張としても,かなり気味の悪いことであることには違いない.

再び,ここで強調しておきたいのは,私が強く批判しているのは, 内容のあるべき議論での発言としての,外延が定かでなく, 隠喩なのか直喩なのか (insane な認識に基く) 事実の表明なのかも判明しないような,断定形の表現が精神に及ぼす悪影響についてである. これに対して,ある種の詩的な表現では,まさにそのような表明が, 受容者の想像力の中に不定形の豊かなイメージを展開することがありえる. そのことの文学的な意味や意義を否定しているつもりでは全くない.

2. 希望的観測または言霊信仰としての 『ヨーロッパ文明は終った』

このタイプの発言で更に気になるのは,多くの場合,それに発言者の希望が交じりこんでいたり, 呪詛としての発音になっていたりするように見えることである.これは 日本文化のコンテキストでは,『言霊信仰』とでも言うことができるのだろうが, 大本営発表の『わが軍の被害軽微なり』や,もっとずっと最近の政府や官僚の発表の 『この量の放射線は人体への影響はありません』などを思い起こすと, この信仰が深く日本文化に根付いていることが理解できる.

さきほど, 「ここで述べたようなタイプの思考は非常によく伝染する」と書いたが,この伝染力も, そのような呪詛としての伝染力と言えるだろう.

我々は背広やネクタイで変装した原始人たちの中に生きていて, 原始人の呪詛に支配されており, 我々自身も気がつかないところで, 原始人の自分の命じるにまかせてしまっていることさえあるのだろうが, すでに遠い昔に禁断の林檎を食べてしまった我々は, そういうふうに幸福に原始人でいることがもはやできないところまで来てしまっている, というのも残念ながら事実のような気がする.

『ヨーロッパ文明は終った』, あるいは,この文章の最初で触れたように, 本来私が問題としていた 『数学は終った』 は,どこかで聞いた台詞だが, もしこれを言っている人が,この台詞を何かを確信して言っているのだとすると, それは,この台詞を言っている人の精神の異常によるのでなければ, ここで言っているような言霊信仰でしかありえなくて, 少なくともこの人たちの言っていることの論理的な分析のようなものが何かを導き出すとは思えない. しかし,心理分析的には,その背景にあるものをある程度推測することはできるような気がする.

『ヨーロッパ文明は終った』 の場合, かつてこれを言った人達は,``エリート大学'' の落ちこぼれ, あるいは,自分はそのようなエリートの中での本当は落ちこぼれなのだ, という意識が頭をよぎることのあるような人達ではなかったかと思う.だから, 『終った』と思いたいのは実はヨーロッパ文明ではなくて, ヨーロッパ文明の権威をかさに君臨している, 自分のような落ちこぼれでないところのエリートたちだったのだろう.

これに対して,『数学は終った』 では, 『ヨーロッパ文明は終った』 とは異なり, 終ったと思いたいのは, 終ったと言われている 『数学』 自身だという直接的な関係になっているように思える.

しかも,後者の場合での落ちこぼれ意識は,非常に容易に生じるというか, ほとんどすべての数学者が持っていもるのではないだろうか. 数学史の中で輝いてみえる天才たちと自分との差はいずれにしても歴然である場合がほとんどだろうからである. 幸にして,そのような意識を持たないですむような才能 (つまり圧倒的な数学の才能,または, 歴然とした事実に目をつぶれる才能) にめぐまれたごく少数の人を除けば, すべての数学者がある種の,そして多くの場合非常に強烈な,おちこぼれ意識を感じることになると思うのだが, しかし,多くの数学者が 『数学は終った』 と思いこむことで, それに対処しようとするわけでもないだろう.

3. 『数学は終った』という言い訳をせずに,どうやって生きていけるか?

学校がいやでいやでたまらない人の中には,学校が失くなればいいと思って, 学校に火をつけてしまう人もいるかもしれない.しかし,そのような人が,そんなに沢山いないことは, 多くの学校が焼失せずに残っていることからも明らかである. このごろは学校の強制力のあり方が昔と変ったためか, 校舎が木造でなくなったためか,この種類の学校の火事はあまり聞かないような気もするが, 学校に本当に火をつけてしまう人が一人出ると,その負の影響の陰で,模倣犯に走る人や,hikikomori の度合を上げてしまう人が無数に出ることになるのではないだろうか.

数学で,落ちこぼれ意識にさいなまれている人のうち,「数学は終った」的な発言で 落ちこぼれ意識に対応しようとする人も, ほんの一握りだろう. 先程,「感染」という言葉を使ったが,このような発言をする人自身は多くなくても, その発言の負の影響力は小さくないようにも思える.

しかし「数学は終った」的発言をする人や,その種の発言の負の影響圏にいない人でも, 数学者としての落ちこぼれ意識としての劣等感に対して, 健全な対応 (そもそもそのようなものがあるとしてだが …) が必ずしもできているわけでもないのではないだろうか.

数学でのこの劣等感への対応と考えられそうな行動パターンとして思いつくものの一つに, 特定の数学者を神格化する,というものがある.これは過去の数学者のこともあるし, 現代の数学者のこともある.しかし,大抵の場合,一神教的に一人の特定の数学者を神格化してあがめる, という行動が観察されることが多いように思える.ある数学者を神格化してしまえば, この数学者を, 自分と比較すべき生身の数学者として扱かう必要がなくなり, 神と自分との関係に集中することで, 落ちこぼれの意識を生じさせる,自分の置かれた状況を忘れることもできるだろう.

一神教的と書いたが,同じ神格化にしても,数学の周辺文化に属する数学者は, ヨーロッパで発展した数学全体を,自分とは別の,遠い世界のこと, と考えることにしてしまう, という対処のパターンもある.これは,重量挙げの選手が起重機をライバルと思わないことや, 通常, 人間が電子計算機を自分の計算能力のライバルと思わないことと同じような世界のとらえ方と言える.

日本を含めた,いくつかの国で行なわれていると思われる, 自国の歴史と,「世界」の歴史を別の科目として教える,という 「教育」は,集団的な劣等感の処理法のモデルとして,全国民に提示されることになるので, そのような国では,その国民は, 世界で起こった/起りつつある数学 (を含めた科学の大きな部分) の発展を, 別世界の事柄として捉えるための訓練ができているし, 日本の場合だったら,その上で,和算を,更なる劣等感の根元とするのではなく, 逆に先祖崇拝の対象としてあがめる,ということへの自然な流れもできていることになる. また,この種の神格化は,神を自分自身の権威の後ろ盾にする, という行為が対になっている,ということも少なくないだろう.

神格化による対処,とは反対に,「... はたいした数学者ではなかった」 「... は数学者としてはある程度の仕事をしたかもしれないが,人間としては最低だった」 「... は歳をとってからはひどい仕事しかしなかった」などの, 偶像破壊で,自分の置かれてる立場を相対的に高める(?) 行為を行なって,劣等感に対処する, というパターンも見受けられる. 一般に mansplain したがる種類の人たちは,このパターンの発言を連発する傾向があるように思えるので, これは数学者の現象というよりもっと一般的な現象として捉えるべきなのかもしれないが, いずれにしても, 批判をすることで,批判の対象より高い位置に立っているような錯覚が味わえる, ということもこの行為の利点(?) かもしれない.もちろん,この種の言明のうちには,神格化,偶像崇拝 の批判にすぎない発言も,多少は含まれているかもしれないが.

この種の批判は, ひとりごと,としてではなく,聴衆を持った発言としてされることも多いので,そのときには, 批判の対象より高い位置に立っているような錯覚を味わう,ということより, 聴衆に自分の立場が批判の対象より高い,という錯覚を聴衆に与えようとする, 自分の権威づけの試みが主眼になっている場合も多いかもしれない.

[この先はまだ書きかけです]


Last modified: Sat Apr 16 13:12:48 JST 2022