ヨーロッパ文明は終った ? --- 思考障害に向けてのディスコース

渕野 昌(Sakaé Fuchino)

(この文章はまだ書きかけです)

最近書いた 書評 (「科学基礎論研究」掲載予定) で扱った本の翻訳者・解説者らの数学に対する姿勢が, あまりにも数学に対して否定的に思われたので, それに抗議する意味で,

(α) 『ヨーロッパ文明は終った』というような キャッチフレーズに踊らされた,あるいはそのようなキャッチフレーズを喜んで 受け入れて踊った,あまり頭のよくない ``エリート'' がうようよいた 時代があったようである.『ヒルベルト計画も静かに消えていったのである』 というキャッチフレーズで「数学は終った」とか,「数理論理学は終った」とか,「数学基礎論は終った」 などと勘違いする,あるいは勘違いしたがる人が山のように出てくるのではないかと 恐れるものである.
と書いたところ,このテキストを丁寧に試読していただいた方の1人から,
少なくとも,この 文章だけからは『ヨーロッパ文明は終わった』 というキャッチフレーズに踊らされることがどうして頭がよくない ことなのかは明かではなく,根拠を明示せずに否定的なことを 言うのは,言いがかりか,単純な侮辱ととられる可能性があると 思います.今でも『ヨーロッパ文明は終わった』という キャッチフレーズに喜んでいる人はうようよいると思いますので
というコメントをいただいた.

この点について書評では,それ以上論じることはさけたのだが, これについてさらに論じることは,この批評でとりあげた書籍の翻訳者・解説者らのスタンスに対する 評者の異存のありかをより詳細に説明することにもなるような気もするので, ここで,改めてこのことについて論じてみたいと思う.

1. 論駁の道具としての 『ヨーロッパ文明は終った』

もちろん,『ヨーロッパ文明は終った』は, 「xxx は終った」,「今はもう xxx の時代ではない」,「日本人には xxx は合わない」 などの 多くの形をとる同様の論駁のパターンの実例の1つの例としてあげているにすぎない.たとえば, 次のような会話の流れを考えてみる:

(β)
話者 A: @#$%4?%^ … (xxx に関する精緻な議論)
話者 B: (話者 A の議論をさえぎって強い言調で) あんたねえ,そんな 難しいことをごたごたならべたって,今はもう xxx の時代じゃないんだよ.
話者 A: … (言葉が継げずに黙ってしまう)
話者 A は話者 B の発言が妥当なものでないことを指摘してさらに自説を続けることもできるだろうが, そうすることは日本文化でのディスコースとして許容されているスタンダードのパターンでは, ないようである.また,ひところ話題になった,「事業仕分け」の公聴会でのように 『手短に,かつ知性に欠陥のある人にも分るように話してください』というような要請が事前にあったりした場合には, いずれにしても,ここで話の流れをもとの議論に戻すことは不可能に近いだろう.

そういうわけで,議論の目的を,相手を言いまかすこと, ととらえたときには,このタイプの発言は, 発言する人の立場や力関係によっては非常に効果的な手立てとなる,と言うことができるだろう.

しかし,たとえば,科学での議論のように,相手を言いまかすことが問題なのではなく, 議論の内容自体が問題となっている場合には,こようなタイプの発言は (その議論の全体にとってだけでなく発言者自身にとっても) 非常に有害である. もちろん,これが議論の内容が問題となっているときに, 相手を言いまかすことが問題だと勘違している人が言った発言なら (この場合には, 自信を持って,このような人を「あまり頭のよくない」人に分類してよいだろう) これはもう問題外である.

そうでない場合でも,たとえば,『ヨーロッパ文明は終った』の例で言えば, この警句の意味しえる主張の幅は,「ヨーロッパ文明が世界を支配している時代は終った」, 「日本文化はもはや明治時代のようにはヨーロッパ文明をその権威付けに必要としなくなった」, 「日本製品はヨーロッパを征服したので日本人は観光地として以外のヨーロッパは忘れてよい」, 「ヨーロッパ文明はアメリカナイズされてもはや昔のヨーロッパはなくなってしまった」,等々, ほとんどなんでもありえるために,議論の相手は, そのような可能な意味すべてに対して反論しなくてはいけなくなり, (いっぺんにそれをすることは不可能なので) 上の (β) でと同じのように,結果として,この警句は相手の歯切れの良い反論を封じることに成功するだろう.

しかし,これは,「相手を言いまかすこと」のレベルでの弁論術としての効果にすぎず, 議論への貢献がないのみならずそれを攪乱するだけだし, さらには,この種類の主張の含意の不確定さが,これを言った人自身の思考も濁らせてしまい, 結果として,得意気にこの発言をしている人の 「あまり頭のよくない」 ことに (そもそもこの種類の内容の不確定な警句を断定的に言ってしまうことに, この発言をした人の頭のよくないことが端的に示されていると言えよう), さらに拍車をかけることになってしまうだろう. (α) で 「キャッチフレーズに踊らされた, あるいはそのようなキャッチフレーズを喜んで受け入れて踊った」と書いたが, この種の「頭のよくない」状況を助長する,ここで述べたようなタイプの思考は非常によく伝染する. そのような種類の発言を聴くたびに, 不安になって,手を洗って消毒をしたくなる衝動にかられてしまう, というのは誇張としても,かなり気味の悪いことであることには違いない.

ただし,強調しておきたいのは,私がここで強く批判しているのは, 内容のあるべき議論での発言としての,外延が定かでなく, 隠喩なのか直喩なのか (insane な認識に基く) 事実の表明なのかも判明しないような,断定形の表現についてである. 詩的な表現では,まさにそのような表明が, 受容者の想像力の中に不定形の豊かなイメージを展開することがありえる. そのことの文学的な意味や意義を否定しているつもりでは全くない.

2. 希望的観測または言霊信仰としての 『ヨーロッパ文明は終った』

このタイプの発言で気になるのは,多くの場合,それに発言者の希望が交じりこんでいたり, 呪詛としての発音になっていたりするように見えることである.これは 日本文化のコンテキストでは,『言霊信仰』とも言うことができるのだろうが, 大本営発表の『わが軍の被害軽微なり』や,もっとずっと最近の政府や官僚の発表の 『この量の放射線は人体への影響はありません』などを思い起こすと, この信仰が深く日本文化に根付いていることが理解できる.

さきほど, 「ここで述べたようなタイプの思考は非常によく伝染する」と書いたが,この伝染力も, そのような呪詛としての伝染力と言えるだろう.

我々は背広やネクタイで変装した原始人たちの中に生きていて, 原始人の呪詛に支配されており, 我々自身も気がつかないところで, 原始人の自分の命じるにまかせてしまっていることさえあるのだろうが, すでに遠い昔に禁断の林檎を食べてしまった我々は, そういうふうに幸福に原始人でいることがもはやできないところまで来てしまっている, というのも残念ながら事実のような気がする.

『ヨーロッパ文明は終った』, あるいは,この文章の最初で触れたように, 本来私が問題としていた 『数学は終った』 は両方とも,どこかで聞いた台詞だが, もしこれを言っている人が,この台詞を何かを確信して言っているのだとすると, それは,この台詞を言っている人の精神の異常によるのでなければ, ここで言っているような言霊信仰でしかありえなくて, 少なくともこの人たちの言っていることの論理的な分析のようなものが何かを導き出すとは思えない. しかし,その背景にあるものをある程度推測することはできるような気がする.

『ヨーロッパ文明は終った』 の場合, かつてこれを言った人達は,``エリート大学'' の落ちこぼれ, あるいは,自分はそのようなエリートの中での本当は落ちこぼれなのだ, という意識が頭をよぎることのあるような人達ではなかったかと思う.だから, 『終った』と思いたいのは実はヨーロッパ文明ではなくて, ヨーロッパ文明の権威をかさに君臨している, 自分のような落ちこぼれでないところのエリートたちだったのだろう.

これに対して,『数学は終った』 では, 『ヨーロッパ文明は終った』 とは異なり, 終ったと思いたいのは, 終ったと言われている 『数学』 自身だという直接的な関係になっている.

しかも,この場合の落ちこぼれ意識は,非常に容易に生じるというか, ほとんどすべての数学者が持っていもるのではないだろうか. 数学史の中で輝いてみえる天才たちと自分との差はいずれにしても歴然である場合がほとんどだろうからである. 幸にしてそのような意識を持たないですむような才能 (つまり圧倒的な数学の才能,または, 歴然とした事実に目をつぶれる才能) にめぐまれたごく少数の人を除けば, すべての数学者がある種のそして多くの場合非常に強烈なおちこぼれ意識を感じることになると思うのだが, しかし,多くの数学者が 『数学は終った』 と思いこむことで, それに対処しようとするわけでもないだろう.

[この先はまだ書きかけです]


Last modified: Fri Mar 18 10:38:11 +0900 2016