渕野 昌(Sakaé Fuchino)
(この文章はまだ書きかけです)
2008年の夏にネット上に公開した文書 の中で,
… というのも, なぜだかは分らない が,∈-無限下降列に対して病的な興味を示す素人数学者が後をたたないからで ある.私の知っている例でも,体系の言語で記述される(内的な)無限降下列 とモデルでの無限降下列の区別さえ定かでないような,∈ の整列性を仮定し ない集合論に関するあやしげな博士論文が,集合論以外の専門の数学者による 審査で通ってしまった,という,ある旧帝国大学*2での最近の事例がある.こ のような不愉快な傾向に拍車をかけるようなまねはくれぐれもやめてほしい, と強く希望する次第である.と書きました. 「とんでも数学者」を挑発しようと思って,意図的にこのような書きかたをしたのでしたが, 実際,インターネット上で, 私の意図を十二分に汲まれて,挑発に乗られた方もいらっしゃったようです.
しかし,言い放しというのも無責任なので, ここで,このような, 通常の集合論と異なる集合の理論(特にここでは, 「基礎の公理の成り立たない集合論」)に対する, もうすこしきちんとした所信表明をしておこうと思います.以下の文章は, そのような目的で書かれたものであります.読者としては, 集合論の公理系についてのぼんやりとしたイメージくらいは持っている人を想定していますが, 予備知識は,例えば, 末尾の文献表にあげた拙著 [2] の前半の内容くらいで十分全部カバーできると思います.
基礎の公理 (Axiom of Foundation) は,
基礎の公理は, 他の集合論の公理よりも遅れてスタンダードな公理系に組みいれられるようになったものです. そのせいか,数理論理学を専門としない人で,この公理には何か問題がある, と思っている方も少なくないようです.
他の集合論の公理が, 様々な集合の存在や, すでに存在している集合から新しい集合を構成するときの個々の構成原理の成立を主張しているのに対し, 基礎の公理は, 集合論の対象である一つ一つの集合に対し,(1) の性質を持たなければいけない, という制限を果している,と解釈することのできる公理になっています.このことは, 「考えられるものすべてを集合として考える」というカントルの精神からは 批判されてもいいのではないか,と思われるかもしれません.
しかし, それにもかかわらず, 普通には基礎の公理を仮定した集合論が数学のベース理論として採用されているのは, 『数学を展開するための基礎としての集合論』, という立場からは, 基礎の公理を満たすような集合の全体の領域を出る必要がないことが, 判っている,と断言できるからです. たとえば,自然数の全体 N や実数の全体 R, 実数から実数への関数の全体 …,などはすべて, このような基礎の公理を満たす領域の中で自然に構成できます (註 1).
しかし,しつこいようですが,さきほども引合に出したカントルの精神からは,これに対しても, だからといって "数学" を限定するのは数学に向うときの健全な姿勢とは言えないのでなないか, という反論も可能であるとは言えないのでしょうか? しかも, 基礎の公理の成り立たない集合論を必要とする理論展開自体が意味を持つ, ということだって,ないとは言えないかもしれなせん. しかし,そのような集合論での理論展開が必須となった場合でも, その理論展開のベースになるべき, 基礎の公理と抵触するような公理系をもとにした集合論の(十分に大きな)フラグメントのモデルを, 基礎の公理の成り立つ普通の集合論の中で作って,その中で議論することも可能なので, あえて, 基礎の公理と抵触するような集合論をベース理論としてもってくる必然性は感じられないのです. ここで, (基礎の公理を含む)集合論での定理として記述したときの)述語論理の完全性が, このようなことがいつでもできる, ということの保証となっていることは注意しておく必要があるでしょう.
上で述べたことは, 基礎の公理と抵触する公理を含む集合論の研究を否定するものではありません (註 2). しかし,特に完全性定理の帰結から,そのような理論が 『数学を展開するための基礎としての集合論』のステータスを通常の集合論から剥奪しうるような オルタナティーヴになりえることはない, ということは確言できるだろうと思います.
もっとも, 基礎の公理を放棄したとしても, 古典的な解析学や, 幾何学など「普通の」数学 (あるいは「実学」としての数学)に対する影響はほとんどないと言えます. しかし,基礎の公理を放棄することは, 超限帰納法を駆使する集合論的数学の大きな部分について, そのような数学での結果を,ユニヴァースの well-founded part に制限したときに成り立つ結果と読みかえる,ということを余儀無くされることを意味します. 私には,基礎の公理を放棄することで, この「超限帰納法を駆使する集合論的数学の大きな部分を放棄する」という 大きな犠牲の代償となるような数学的な何かが得られるようには思えないのです.
一方,基礎の公理の成り立たない("本物"の)∈-関係を考察する必然性が出てくるとすれば, それは,例えば,集合論を意識の モデル,ないし概念認識のモデルのようなものとして捉える立場からでしょう.
基礎の公理の成り立たない集合論の部分体系の無矛盾性の強さを研究している [4] で, この論文の著者の Rathjen は,いみじくも
Logicians first explored set theories whose universe contains what are called non-wellfounded sets, or hypersets (cf. [6, 2]). But the area was considered rather exotic until these theories were put to use in developing rigorous accounts of circular notions in computer science (cf. [4]).と述べていますが,ここで "[4]" と言っているのは,後出の文献表での Barwise と Moss による [1] であり,この文献の扱おうとしているのは,まさに, 知識表現論や言語処理の一般論なども含む "computer science" の表現空間としての集合論です.
もっとも,基礎の公理の成り立たない集合論はその well-founded part として通常の集合論を内包しているわけなので,意識の モデル,ないし概念認識のモデルを考察するときに, そのような大がかりなからくりを持ちだしてくる, というのは,私には, ドイツ語の慣用句で言うところの,「大砲で雀を撃つ」ようなものにも思えます. 意識のモデルないし概念認識のモデルとして non well-founded な構造が必要なら, わざわざそのような集合論を作らなくても, 通常の集合論の中でそのような構造を作って調べれば十分だからです. たとえば,民主主義の不可能性を議論するためにだって, 民主主義の不可能性を体現する集合論を作る必要はなくて, 選挙や集団の意志決定の評価のモデルになるような構造上の線形順序の存在/非存在の理論のようなものを (通常の集合論の中で)考察すればいいわけです(たとえば [5] を参照).
いずれにしても, 数学としては,基礎の公理の成り立たない集合の理論 (つまりその理論ですでに確立している結果や将来確立されるであろう結果の総体)が数学理論として 「美しい」,あるいは,「面白い」(ものになる)かどうかが, この理論の(数学理論としての)存在意義の評価を左右することになるのだろうと思います.
もちろん,この 「美しい」や「面白い」は,たとえば「美しい国」とか,「誇れる国」のような, ある意味, 価値判断を独断にすりかえてしまうときのレトリックで用いられる常套句に出てくる言葉でもあるわけで, これが非常に危険な発言であることも十分に承知しています. しかし,3000余年の数学の歴史をつらぬいてきた数学観を背景とする,「美しい数学」や 「面白い数学」に対する多くの数学者が(少なくとも大筋では)共有している価値観は, 単なる国粋主義的集団的独断のレトリックとは一線を画しているものだと言っていいと思っています.
上の議論では,「基礎の公理の成り立たない集合論」に対して, ここではちょっと他人事のような言い方をしてしまっていますが, 反対に,この理論で浮びあがってくる状況が,その well-founded part としての通常の集合論に予想外の影響を与えることが分る, なんていう展開が起こらないという絶対の保証があるわけでもありせん. 万が一そのようなことが起こったときには,私も, 対岸の火事のような呑気なことを言っていられなくなることになるということもありえますが, それはそうなったときに考えればいいことだろうと思っています.
さて, 「基礎の公理の成り立たない集合論」の理論自身については,私が述べたかったことは, 少なくとも大筋では上に書いたことに尽きるのですが,この文章の最初で触れた, 2008年の夏にネット上に公開した文書 の一節で私が問題としていたのは, むしろ,この 「基礎の公理の成り立たない集合」の理論をとりまく,ある種の人々の方でした.
上でも述べたように, 基礎の公理を否定しない集合論の意義を議論することは可能なわけですが, それだけではなくて,現在において, 集合論はとても生産的だし, 数学的に意義のある,あるいは面白そうに見える未解決の問題も沢山かかえています. しかし,他の数学の分野でもそうなのでしょうが, 研究の前線でやられていることはおそろしく難しくて, なまはんかな数学の才能しか持っていない人にはなかなかついて行けない, というのも本当のところです.これについてゆけない人が alternative の集合論を標傍して, 既成概念にこりかたまった旧体制の人達に立ち向かって英雄的に新しい研究分野の旗印をあげる, というようなポーズをとりたくなるような条件が揃っているのです.
全員がそうだとは言いませんが,これは,日本で数学史をやっている, と言っている人たちの中に研究の前線から脱落して茶飲み話としての数学史に流れてきている人が氾濫していて, 全体として見たときに,数学の歴史の研究というスタンダードが保たれていなくて,せいぜい 最良の場合でも一般向けの売れる数学書のねたとしての数学史でしかない, というような状況を呈しているのとも似ている,と言えるかもしれません.
しかも,「基礎の公理の成り立たない集合」では, 上に言ったような alternative である,という殉教者の役割を演じることのできる旨みが加わっている, という点で, 状況はもっと具合の悪い(あるいは,ある種の人々から見えれば具合のよい?)ものになっている,とも言えます.
まあ,茶飲み話としての「基礎の公理の成り立たない集合」なら, べつに目くじらをたてることはないとも言えるかもしれませんが, それなら茶飲み話と研究を一緒にしないでほしいというのが私の希望です.
(註 1) 数学を専門にしていない人で,上の 『数学を展開するための基礎としての集合論』という表現がピンとこない人は, たとえば,[3] の前半をごらんください.
(註 2) 実際, 私の研究でとりあげる予定の (あるいは学生に研究課題としてあげてもいいと思っている) 未解決問題のリストの中にも,基礎の公理の否定に関連するものがいくつかあります.
少し専門的になりますが, 基礎の公理は選択公理の不在のもとでは,ある種の弱い選択公理の substitute として使えるので,これも仮定しないときに何が言えるのかを調べることは, 基礎の公理が集合論でになっている役割を明らかにする, という観点からも興味のある問題となります.たとえば,選択公理と Axiom of Multiple Choice は基礎の公理を仮定したときには同値になることが知られていますが (この証明に関しては Andres Caicedo の書いたよくまとまった学生向けのテキストがネットからダウンロードできます), 基礎の公理を落とすと同値でないことが consistent になることが, Fraenkel-Mostowski のモデルを用いて証明できます.これを示すモデルが atoms を導入せずに作れるのか,というのは多分未解決の問題ではないかと思います.