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しかし,煙草に関しては,実は「あら」以上のものがある. 街が煙草臭いのもそうだが, それを避けて入れるような禁煙の喫茶店やレストランがほとんどない, というのも街に出たときの深刻な問題である.禁煙とうたっているレストランもあるが, そのほとんどは分煙という名の受動喫煙レストランである.しかも, やっと見つけて入った全席禁煙の場所が, おばさんやおねえさんたちで占拠されていて,肩身のせまい思いをする, ということも少なくない.
そういうわけで,僕が転居したことで「春日井日記」は春日井日記としての raison d'être を剥奪されてしまったわけであるが,引越荷物のダンボール箱の山が消滅するころには, 転居のストレスの作文療法のようなものになってしまったこの日記も終りにしようと思っている.
今度引越した場所の住所は「伯母野山町」というなんだか山姥のような, 柳田国男がよろこびそうな地名である.しかし,wikipedia によると,伯母の山/叔父の山というのは, 関東の日向山/日影山の地名の対と似たような意味合いを持つものであるらしい. もしこの日記の続きを 「伯母野山日記」として書くとすれば, 今度は,もう少しドライな数学に関するエッセーのようなものにしたいと思っている.
"Suburbis (II)" でタルコフスキーの『鏡』(Serkalo 1975)に触れたが, 同じタルコフスキーの『ノスタルジア』(1983) のことをしきりに思い出している.
『ノスタルジア』でも, タルコフスキーの他の作品と同様に, いくつかの切れ目のない長い一つながりのショットが作品の流れを支配しているのだが. そのようなものの一つに, 中程に出てくる,アンドレイがホテルの部屋に入り,雨が降りだして, 犬が部屋に入ってきて (タルコフスキーの映画では犬は深層意識の象徴のようなものとして,また, 映画の進行の意識の流れをすりぬけてしまう本質的な存在として現われるようだ --- この映画でも, ここで出てくる犬は最後のシーンでアンドレイの死の間際のビジョンの中で遠い故郷の野原でアンドレイと一緒に坐っている犬の予告になっている), 雨がやんでゆくまでの時間の経過のシーンがある.
『ノスタルジア』は,ここでは望郷の念だが, アンドレイがイタリアのうす暗いホテルの部屋に入ってきて手さぐりで, 手の記憶の知っている場所をまさぐって電気のスイッチをさがすが, そこにはスイッチがなくて,結局ドアの反対側にスイッチを見付ける,というのが, この長いショットの入口になっている.
僕が今,記憶の中で反芻しているのは,まさにこの場面である.
今度引越した新居は,春日井で借りていた家と間取りが似ていて, 建った時期もほとんど同じなので,細部というかインテリアに使われている部品にも似たものが多い. それで寝惚けているときには一瞬自分がどこにいるのか分らなくなることもある. もちろん, 作りは全く同じではなくてトイレとバスルームの位置関係が反対だったりするのだが.
しかも,どういうわけか,この新居の電気のスイッチ類は独逸のスタンダードの高さについていて (つまり日本の普通の高さより 10 cm くらい高い場所についている), これが僕の独逸に住んでいたころの手の記憶を呼びさますのだが, 一方ドアのノブの位置は日本の普通の高さなので,追憶の中の家を混乱させているのだ.
はからずも,これまでに僕は日本で, 上の両方の意味での『郊外』に長く住む体験を二度してきた. 一度目は,1960年代から1970年代にかけての,東京の郊外の,かつての国木田独歩が 『武蔵野』と呼んだ場所よりさらに奥の,``武蔵野の郊外''の名残りとでも言える場所であり, 二度目は 2000年代の春日井市だった.
当時まだ農村の面影の残っていた東京郊外の東久留米に, 僕の家族が世田谷区から移住したのは僕が小学校に入る少し前の頃だった. 当時はまだ藁ぶき屋根の農家が沢山残っていて, 農家の子供たちは僕にはよく分らない日本語を話していた. 家の周りの農家の子供たちの多くは県境のむこうの子供たちだったので, 小学校は別になって,その後の交流はなくなってしまったのだが.
僕の移り住んだ家は森の外れにあって,当時家の裏手には見わたすがぎり農地が広がっていた. この農地をずっと行った,さらに北には17世紀半ばに作られた 野火止用水 があり, 江戸時代からの木造の用水構がまだ残っていた.この用水ぞいに道が通っていて, 用水路を越えてさらに進むと,栗や櫟の 屋敷森 の奥に隠れるように農家があり, その裏手には先祖代々の墓があって, さらに森をぬけると,またその裏手の農家の農地が広がっていた. ここに越した後の初めのころには,夏になると野火止用水の用水路には蛍が飛び交っていた. 土地の農家は農地の散逸を防ぐために近親結婚をすることが多かったということで, ダウン症など遺伝的な知的障害を持っていると思われる子供も少なくなかった.
小学校では, 農家の子供たちが町から移住してきた子供たちから大変な差別を受けていた. さらに都営住宅に住む子供たちはもう少し裕福な人たちの住むもう一つの住宅の子供から差別されていた. もちろんこの差別は, 子供たちの親の意識を反映するものだったのだろう. 僕の家の住所は都営住宅と同じ地名だったのだが, この少し裕福な人たちの住む住宅地で遊んでいて,遊んでいた子供の親から住所を聞かれ, もうここに遊びに来るな,と言われたことがあった.
小学校では知的興味を共有できる友達が周りに一人もいなくて大変苦しい思いをした. 町が市になり, ベットタウン化が進んでいったが, 周りに新しい家が建つと都会から友達になれる種類の子供が越してくるのではないかと期待した. そんなこともあって, 東久留米に引越す前に住んでいた記憶の中の経堂の家は, 子供の僕にとって,失われた理想の故郷のようなものに思えていた.
この孤立は,中学校に入ると解消した. 僕の通っていた小学校の生徒は, 僕が小学校の中学年のころに建った団地の中の小学校の子供たちと一緒に,この団地にある中学校に入学したのだが, この団地の子供たちの中にはとても優秀な人たちが沢山いて,彼等のおかげで,この中学では, 僕の大学までの学校生活を通じて一番刺激的な時期を過すことになった. しかし,僕が中学三年生になるころには, 僕が知的な刺激を受けていた優秀な友達の多くは,この団地から引越していなくなってしまっていた. そうしているうちに町のベッドタウン化はさらに進んでいった.
タルコフスキーの『鏡』で,かつての少年が住んでいた森のはずれの家は廃墟になって森は残ったが, 僕の少年時代の森のはずれの家は,ベッドタウンの一戸建の連なりの砂漠に埋没して, 僕は二重の故郷喪失者になった.
2001年に中部大学に赴任して春日井に移り住んだが, ここでの郊外体験は僕の小学校時代の再現のようだった. 春日井のベッドタウン化は, 早い時期に高蔵寺ニュータウンという大規模な団地として, 丘陵の上に局在化する形で進んでいたようだ.しかし,ここは次第に老朽化してきて, 一戸建ての建築の波が丘の下の古代には浅瀬の湖の底だった場所に押しよせていた. 僕が移住したときには,このかつての東海湖の湖底には畑や田圃がまだ沢山残っていたが, これは農家が土地を手放す直前の過渡的な状況でしかないことは一目瞭然だった. 畑で農作業をしている人は年配の人ばかりのようだった. まだ,日本式の農作業を続けてきた人に特有の腰の曲がりかたをしたお年寄りが, 古いうばぐるまなどをつえにして, 百日紅の赤い花の咲く (かつての) 村はずれのお地蔵さんに供物をしたりしているのを見ることがあったが, この人たちがいなくなるころには, 昔農村だったことの記憶も消えさってしまうのではないかと思われた.
しかし, このような農村の崩壊は, 実はずっと前から日本中の近郊とよばれるような多くの場所で起っていたのかもしれない. 東久留米では,自作農の中規模農家が,戦後の農地改革をしっかり生きびていたためか, あまり気がつかなかったのだが,春日井では, 廃墟になって消滅した大農家の跡と思われるものがいくつかの場所で見られた. そのような場所は, 昔,大農家の庭に植えられていたと思われる椰子や芭蕉など南洋系の植物が, 場違いに時間を越えてそそり立っていることでそれと知れた.
春日井の大学では,工学部の教養の数学を教える,というのが主な仕事だったので, 自分の研究と教育が完全に分離してしまい非常に大変な思いをすることになった. 教えなくてはいけない学生が, ほっておけば自分でどんどん理解する,という種類の人達ではない場合には, そのことの責任をすべて教える側が負わされることになるため, 教育は非常に割の合わない仕事になってしまう.しかも学生の多くは 理解するということ自体を全く拒絶していた. 拒絶しないまでも,理解する,ということが何かを全く理解していないようだった. しかも,彼等は理学系の学生でもなく,だから 多分,犬と鶏の違いのように,僕の属すのとは違う文化圏の人たちなので, 彼等が理解することを拒絶すること自体を非難するわけにもいかなくて, 見て見ぬふりをしなくてはならず,小学校のときのような悲しい思いをした.
もともと春日井に移住することを決意したのは, 名古屋大学で開かれていた 集合論セミナー に合流するためだった.春日井に移住してから 僕が数学者として死なずにすんだのは, 半分以上はこのセミナーのおかげだと思っている. 春日井の大学では結局誰とも本格的な学問上の交流や共同研究を行うにはいたらなかったが, 名古屋の集合論セミナーのメンバーとは学問上でもそれ以外でも大変刺激的な交流を持てたし, 名古屋大学の大学院生として名大の松原洋氏のところで勉強していた優秀な数学者たちと, いくつかの共著論文を書くこともできた.
僕は数学者としてかろうじてこの8年を生きのびることができ, これから神戸で復活をかけて闘うことになったが, この8年あまりの間に,春日井市の僕の住んでいたあたりは, かつて農村であった場所から, 一戸建ての家やマンションが立ちならぶどこでもない場所になってしまった.
たとえば,曲集中の第一曲の曲名は, "El Carrer el cuitarrista i el vell cavall" (裏通り,ギタリトと老いたる馬)となっていて, 反復音型や二度のきしみの入ったアルペジョや前打音をともなった和音などの音型で中断されたり, 前奏されたり後奏されたりする, 4度を強調した和音のついたメロディーは,街角から響いてくる, 誰かの弾いているギター,というような聞かれかれかたをされるべきものであることを示唆している.
こう書くと,これは Debussy の「遮らえたセレナーデ」のコンセプトのパクりではないか, という気もしてくるが, Debussy のセレナーデが想像上のスペインの街角だったのに対し, Mompou のそれは現実の郊外の憂鬱につらなって出てきた音楽と言えるだろう.
涼しくなってきた夕方の郊外の街角に,つまびくギターの音がきこえてくる, というような情緒の音楽表現は現代ではなかなか難しいかもしれない. たとえば, カーステレオの音量をいっぱいにあげたオープンカーが夕方の街角を走りぬける現代のバルセロナの郊外を, 同じような音詩に謳いあげることなんてできるだろうか.
もちろん現代では, テープ音楽という手があって,街角の音の情緒ということでは, 近藤譲の「夏の日」などもすぐに思い浮かぶのだが, しかし,これだって,むしろ現代というより,もう40年近く前の, エアコンがまだ日本でれほど普及していなかったころの, 変色した写真の中の日本の夏の日のノスタルジーに属している, と言えよう.
現代の都市の郊外の現実音のうるささ加減は, どうも,そういった音楽的情緒として抽出されることを拒んでいるようである. 逆に,古くさい「音楽的情緒」などに拘泥しなければ, それ自体として全く別の意味で非常に音楽的であるとも言えるのかもしれないが.
旧型ジャンボ (Boeng 747 "classic") は, 僕には,このような意味で, 1980年代から90年代の初頭にかけての時代精神を反映しているように思える.
1980年代というと,僕は短かい何回かの帰国を除くとずっとヨーロッパで暮していたのだが, 日本では, 外国に旅行したり滞在したりすることが普通の日本人にとってもそれほど特別のことでなくなり, 日本の書店の旅行コーナーから外国の文化や歴史についての本格的な記述のあるガイドブックが徐々に姿を消してゆき, ショッピングや食べもののことだけの書いてある旅行ガイドが, それに代わっていったのがちょうどこの頃だったのではないだろうか. そして, このショッピングや食べもののことしか書いていない旅行ガイドを持って外国旅行に出掛けた多くの日本人ツアー客が乗ったのが, コクピットの電子化のまだ進んでいなかったころの, 計器盤に沢山のメーターやスイッチのならんだ操縦室を持つ747クラシックだった.
僕自身,日本へ帰国するときに何度もジャンボに乗った. 東西の壁が開く前は西側の飛行機はロシアの上を飛ぶことはできなかったので, 中近東経由のルートで長時間のフライトになったこともあった. ある夏日本に帰ってきたときに,箱崎のターミナルからのタクシーで, 運転手さんに,少し前に日航のジャンボが墜落して坂本九もそれに乗っていたらしい,という話を聞いた. 今,調べてみると,これは1985年のことだった. 大韓航空のジャンボで北回りのアンカレッジ経由の便に乗ったこともあったが, こちらの方は, 大韓航空のジャンボ機がソ連の戦闘機に撃ち落とされた1983年より少し後のことだったと思う.
日航でクラシック ジャンボが全機引退することになり, この7月の終りに,日航の 747 classic による最後の便のフライトがあった. この少し前に,最後を惜しみ,
引退直前の 747 SR-300 で,民間機の訓練飛行場である沖縄の下地島空港へ行き,このクラシックジャンボの touch and go 離着陸訓練のデモンストレーションを見る,というツアー旅行があった. これは,ひとつの時代の終焉の儀式に参列するような旅でもあった.
今学期は「数学の考え方」という名前の講義を2つ平行して行ったので, この講義を受講した学生の答案を全部で200枚あまり採点しなくてならず, これが採点のほぼ半分を占めていた.教養の科目ということもあり, 講義で使ったスライドはネット上で 公開し, 試験の「予想問題」もあらかじめ配付し, 試験も(電子機器以外は)すべて持ち込み可,という条件で行なった. 講義で寝ていたとしても,スライドを見なおせば, 講義の趣旨はある程度察しがつくはずなのであるが, 何も考えずにインターネット上の資料を丸写しにしている (あるいは丸写しに失敗して間違えて写している)答案が続出したのには閉口した.
講義中に,インターネット上の資料は批判的に使うように,という注意を何度もしたはずなのだが. 批判的に使うためにはその前に少なくともその内容を理解しなくてはいけない, ということに思いいたらなかったためなのか, あるいは,僕が explicit にそのように言わなかったのがいけなかったのか.なにしろ, 学生が先回りして考えてくれない場合には, 学生の知性の欠落の責任をすべて教える側がとらなくてはならない, というのはなんとも荷が重い.
ところで,そういった不愉快な答案のうち,問題のあるものの多くの出典が Wikipedia らしいのが非常に気になった. 答案の文章のうち,学生がひねり出せそうにない語彙を使っていて, しかも内容に問題のあるフレーズをネット上で検索すると必ずといっていいくらい Wikipedia の項目にヒットするので,うんざりした.
特に, Wikipedia の日本語版に関しては, この講義中にも「とんでも項目」が多いことを例をあげて説明したし, 使う場合には少なくとも英語版との併読くらいはするように (つまりそれができないときには使わないように), というような注意も再三したと思うのだが.
Wikipedia の,誰でも自由に項目の執筆に参加できる, というコンセプト自体は,素晴しいものだとは思うが,これを絶対的「真理」の存在しない日本でやると, 結果として(日本語文化の)知性の崩壊を加速させるような結果を生むだけなのではないか, という危機感を感じる.
言葉が時代や世代ごとに変化してゆくのは, 変化する生活様式や生活感情に言葉を最適化させる必要からか,それとも, 単に異なる時代や世代の区別を明確にする必要からなのか.いわゆる「若者言葉」は, 主に後者の必要からのもののようにも思えるが,いずれにしても,日本語 (あるいは日本語以外の言語)の使われかたの変化に 「おかしい」という感想でしか反応できなくなっているとしたら, それを老化と批判されても仕方がないだろう.
しかし,変化に迎合していればいい,というわけでもないだろう.また, 変化は,自然発生的に起っているだけではなく, その変化の背後にある「時代精神」やその言葉を話している人たちの 「国民精神」のようなものも含めて,意識的に操作されている部分もあるようにも思えるので, こちら側も,それに対して批判的に対応することは必要ですらあるのではないだろうか, と言ったら,これはもう明らさまに年寄の自己弁護である.
それを承知の上で言ってしまうと,近頃私の思っている意味とは違う使われかたをされる言葉で, その使われかたがあまり愉快でないものも少なくない.そのようなものの一つに「破天荒」がある.
広辞宛を見ると,この言葉の語義は:
(「天荒」は天地未開の時の混沌たるさまで、 これをやぶりひらく意)今まで誰もしなかったことをすること。 未曾有。前代未聞。となっていて, これでみるかぎり,「誰もしなかったような 偉業をなしとげること」というニュアンスがあるように見えるし,実際, 文章の中ではそのような使い方がされてきた言葉である. 2003年12月に非売品として発行されている, 倉田令二朗先生の追悼文集は 「破天荒の人」という題だが,もちろんこの破天荒も, この語義の解釈における破天荒であろう.
しかし,どうも最近の巷の口語では, この単語は,もっぱら, 「ばかなことをしでかす」とか 「けったいなことをしでかす」というような意味で用いられているようである.
ここで,あまり愉快な気持がしないと言ったのは,この誤用の裏に, 単に語義の誤解だけでなく,本質的な革新, あるいは,その試みをもきらう日本人の体質がにじみ出ているような気がするからである.
[この項目はまだ書きかけです.]
数学のように,才能を努力でカバーできる余地のほとんどない (しかも,才能がちょっとくらいあっても, さらに信じられないような努力をしないと先に進めない)分野では, 本当によくできる人だけをとる, ということを徹底するしかないのだろう.
しかし,本当によくできる人に制限したときの, 統合失調症の発病率はかなり高いのではないか,というような不安もあるし, できると思ってとってみた学生が, それほどできなかった場合にどうするべきなのか,というのも頭の痛い問題であろう. 昔,Woodin が言った言葉として,Jensen 先生から聞いたことがあるものに, 「博士論文の指導の要点は,いかに学生が思いついたのではない証明を, 自分で思いついたと思いこませるかにある」というのがあったが, そのような種類の論文捏造をしなければならないのだろうか.もちろん Woodin がこれを言えば様になるが ….
ところで,上で言ったような私の危惧は多くの人にとって理解のできないことのようである. それは,「才能を努力でカバーできる余地」がほとんどない,という状況自体が 社会的には例外である,あるいは例外だと思われている, ということなのではないだろうか.それは,たとえば,「やればできる」とか, 「努力がたりない」というような言い回しに現われている.
数学の研究に必要な才能を持っていない人に, 研究と言えるレベルの成果を出せ, というプレッシャーをかけることは,この人を自殺に追いこむことになりかねない. 特に,自分が数学の研究に必要なだけの才能を持っていないことを認めることができず, 才能を努力でカバーする,という数学では不可能なことに自虐的に挑戦する (我々凡庸な数学者は多かれ少なかれ, この戦略でかろうじて数学者であり続けている, と言えるだろう)だけのこらえ性もない人の場合, プレッシャーをかけられたときの反応は反撃でなければ (そういえば,かつての弟子に殺された大学教授の事件も最近あった), 自害でしかありえないだろう.
プレッシャーを乗りこえて先に進めるかもしれない, という人に期待してプレッシャーをかけたらその人が自殺してしまった, というような状況は不幸と言えるが, プレッシャーをかけてもものにならないことが判っている人にプレッシャーをかけた結果, その人が自殺してしまったとしたら,これはもう無駄死にとしか言いようがないだろう.
私の(学問的)興味の幅は決して狭くないつもりである. 特に,数学研究の裾野にころがっている, それほど才能がなくても挑戦できそうな,しかも,十分に意義もある, という種類の問題のストックは小さくない. プレッシャーをかけることのためらわれる学生が間違って入門してきたときには, とりあえず,そのような問題をやってもらう,ということもできるかもしれない. 実は,10月からの移動先の選考の面接で, 博士課程前期くらいの学生には,そのような研究テーマをあげることもできる, というような話をしたのだが, 工学系の人が大勢をしめる,この選考委員会には, 私の 「自殺者を出すことはしないように心掛けるが, かといって学生をひどく取りしぶることもさけたいとは思っている」 という言外のメッセージはうまく伝わらず, 後の質問で,「学術的と言えないテーマを学生に与える人がいるが, そういうことはやめてほしい」というようなコメントをいただいてしまった.
数学者というのが(日本で)職業(つまり,肩書きに使えるような職業)として, 確立しているのかどうか,というのは微妙な問題のように思える.ただし, 職業であるかいなかは別として一応私自身は数学者の一人のつもりでいるし, 数学者として,まだ死んでいない(註1)と胸をはって言えるとも思っている (私の数学研究の質については,とりあえずは,ここではつっこまないで欲しい). そして私が数学者として研究していることは, 個人の趣味とか興味とかいうことを越えて,もっと大きい普遍的な意味を持っている, とも確信している. もし本当に仙人のように霞を食って生きていられるのなら, 迷わず現世の生活をすべて投げうって, そのような生き方をして,この研究に専念するだろうと思う.あるいは, そんなことを言うまでもなく, "ふつう" の人には, 私の今の生活でも既に世捨て人のそれに限りなく近いものに見えるかもしれない.
一方,「数学者」が「社会」から求められていることは, 上で言ったような, 霞を食って研究をしていてもよいというつもりで数学をやっている数学者の側の思っていることとは, 微妙な以上の食い違いがあるようである.
しかし,このときの「求めている」側の「社会」は,いずれにしても かなり矮小なもので,たとえば,この「数学者」が日本の国立大学法人に勤めている場合には, 一番外枠でも,せいぜいがその時点での日本国か,勤めている大学といったところであろう. こう言うと,なにをあたりまえのことを言っているか, と思われるかもしれないが,数学者が相手にしているのは, 人類が3000年以上の間はぐくんできた「絶対的数学的真理」であり, そしてこの3000年というのは,個々の国家のタイムスパンをはるかに越える時間なのだから, この乖離は決して小さくないのである. 実際には,ここで言うところの 「絶対的数学的真理」は,3000年どころか,人類の知性が崩壊しないかぎり (少なくとも人類にとって)永久に普遍のはずなので(註2), その意味からは,3000年という, 現代の数学との関連を論じることのできるかぎりの数学の歴史の存続年数の見積もりの下限ですら, その「絶対的数学的真理」との対比は単なる言葉の綾でしかないと言えるだろう.
言わゆる "社会" が数学者,あるいはもっと一般に科学者全般に求めていることは, 何らかの意味で「役にたつこと」ではないかと思う.しかし 「役にたつ」は大変いいかげんな言葉で, A が B に「役にたつことをやって欲しい」と言うときには,A は B に 「A の都合によいことをやって欲しい」,と言っているのとほとんど同じであろう.
私は現在工学部に所属しているので,「工学に役にたつ数学をやっていただきたい」とか 「工学に役にたつ数学を教えていただきたい」というような, 要求とも命令ともつかない台詞を聞かされることが多い.私のこれに対する答は, 「むしろ数学(の研究)に役にたつ工学をやっていただきたい」というものである. もちろん,数学に役にたつ工学といっても,旧来の工学では歯がたたないかもしれないが, 情報工学や電子工学は数学に役にたつ可能性を十分に持っていると思うのである. しかも,人類の知的活動の頂点の一つである数学に役にたつ工学をめざすことは, 人類の知的活動全般に対する工学的サポートに関する最良のモデルケースの研究になるはずであるから, "工学者" の価値観で見ても十分に意義のあることだと思う.しかし残念ながら, このコメントに対して工学系の人々からインテリジェントな答が帰ってきたためしはいまだかつてない.
もっとも,この「役にたつ」の中には,もう少し公平無私に聞こえる 「人類の役にたつ」というようなやつもある. でも,この場合,何がどうなるのが人類にとっていいことなのかかがはっきりしていたとしても, 何がそのための役にたつかは, 後になってみないと分らないわけだろうし,何がどうなるのが人類にとっていいことなのかも, 主観的な思いこみ以上の判定条件が出てくるようには思えない. 「人類」をもう少し矮小化して「世界平和」とか「アジア」とか「日本」とか 「愛知」とかに限定してみても状況は同じだろうし.同じくらいに胡散臭いとも言える. 「工学に役にたつ数学をやっていただきたい」と言われたときに, その要請と同じくらい無内容な 「いえ,私は人類の役にたつ数学をやっているんです」という言明で答える, というのはどうだろうか? しかし, もし「人類」を,数学を理解する能力のある人たち, というように限定して考えなくてはいけないのだとしたら,それは 「人類のために」と言えるのだろうか? 逆に, 数学も理解する能力のない人たちと限定したときに, それは人類と言えるのだろうか?
日本では,そして多分,日本以外の多くの場所でも,よほど例外的に幸福な環境にいるのでないかぎり, 数学を数学として研究することを許されるのは非常に難しいように思える. 数学者は,「私の円を乱すな」と言ったアルキメデスの, ローマ兵に首をはねられる刹那を味わいつづける運命にあるのかもしれない. しかし,この場合の理想は,伝説の中でのアルキメデスがそうだったように, 首をはねられるという現実を無視して円の研究をし続けることだろう.
(註1) Paul Erdös は,数学を研究することをやめてしまった (あるいは数学を研究することができなくなってしまった)数学者を, 「死んだ」と形容したが,ここで"死んだ"と書いたのもその意味である.
(註2) 私個人は,人類の後に来る知性にとっても, (人間の思考能力のキャパシティーに由来するスタイルの制限などを除けば) 数学は,普遍なはずだ,あるいは普遍でないにしても, 人類の確立したこの数学という偉大なモニュメントを, 後に来る知性は十分に評価できるはずだ,というように考えているのだが,
「私は数学というものは人類だけのものであるような気がしている. 真理といったって, われわれがそう見ようとしている真理しか見ることができないのである. 」(足立恒雄 『√2 の不思議』,ちくま学芸文庫 p.211)というような意見もあるようである. これは確かにそうかもしれないが,人類の後に来る知性ということに限れば,これは, ネットワーク上の仮想生物の知性になるのではないかと想像しているのだが, その場合には,この知性は,人類の知の遺産も十分に受けついでいるはずで,そうであるなら, 「人間って何て頭の悪いやつらだったんだ」と馬鹿にすることはあるにしても, 人類の創造した数学に対しては敬意をはらってくれるのではないだろうか.
[この項目はまだ書きかけです.後で補足するか(and/or) 関連の話題について項目を改めて書くかすることにします]
ある土地 A から別の土地 B 移住する,というのは,「A で生活していた僕」が死んで, 「B で生活を始める僕」が生れることのようにも思える.しかも,記憶の幾何学の中では, 「A で生活していた僕」は B に移住した後でも,まだ (あの時の) A での生活を続けている.
少年の僕は経堂の家にまだ住んでいて,朽ちた縁側の木板の刺を指にさしたり, 庭を真中で区切っている椙の木に登って,さびたトタンの屋根を上から見下ろしたりしている.
イェルシャレイムの僕は, ジャーマン・クオーターの下宿に戻って,建物のまんなかに作ってある小さな Lichthoff を通りぬけて,ひんやりとした僕のアパートメントに入り, 入口の靴置きの上にこのあいだ大学からの帰り道に通る植物園でひろってきた, 巨大な松ぼっくりが2つ置いてあるのを確認して, スーパーの買物を入れた布袋を,左右対称に食器戸棚が2つある厳格に kosher な台所の, 食卓の上に置いているのだ.
色々な土地に移り住むことは,だから, 自分の生きているパラレルワールドが次々に増えてゆくことでもある. この日記のプレアンブルにも書いたように, 僕は8年くらい住んだ春日井をもうすぐ去ろうとしていて, だから,この場所を末期の眼で見はじめている.春日井で生活していた時分の僕を, 死んだ後の未来の僕がなつかしんでいる.